エンジェルを抱きしめる 31


「エンジュ抜けて、俺らと一緒に来ないかって、言ったこと」
「ああ……」
 たしかに牧村たち三人がエンジュを抜けるときに、そう誘われた。
 けれど、あのころの琳はエンジュを抜けるなんて考えもしなかったから、それを断っていた。
「なあ、もう一回、考えてくれないかな、そのこと」
「……」
「できれば、青芝敲惺を連れて一緒にきて欲しいんだ」
「えっ?」
「うちんとこ、いま、ドラマー抜けていなくなっちゃってるんだよ。それで困っててさ。彼なら実力もあるし、うちのバンドにも合うと思う。だからさ、琳とふたりで、そっち抜けて、こっちにきてくれねえかなあ」
 後ろに立った男に、「な」と、同意を求める。見知らぬその男も、うんうんと笑顔で頷いていた。
「うちのボーカル、琳の知らない奴だけど、いい声してるぜ」
「そうなんですか」
「一度、遊びにきなよ。琳なら大歓迎だからさ」
 青芝と一緒にな、と誘われて、琳は断ることができなかった。敲惺と一緒に、エンジュを抜けて別のバンドに行く。そんなこと、考えたこともなかった。
「青芝と一緒に、うちのバンドに来ること、よかったら真剣に考えておいて欲しい。俺らにはふたりとも必要だから」
 そう言われて、琳は、つい「わかりました」と答えてしまっていた。
「そっか、じゃあ、連絡先……持ってたっけ?」
「まだあります」
「俺も持ってる。なら、近いうちにまた、連絡するよ」
 にこにこと笑顔で応対して、それじゃあ、と牧村は去っていった。ふたりがスタジオから出て行くのを見送ってから、琳はもう一度、椅子に腰かけた。
 敲惺とふたりで、エンジュを抜ける。そうして、新しいバンドを組む。
 それは、ひどく魅力的な提案に聞こえた。そんな可能性は今まで考えたこともなかったから。
 けれど、そうできないことも、琳には分かっていた。今このときに、明日にはワンマンライブをひかえて、その成功いかんによってメジャーへの契約が決まるこの時期に、その選択はありえない。
 そして、琳にはそれを選ぶつもりもなかった。今まで五年かけて培ってきたものが、やっと目を出そうとしているのに、すべてを捨ててまた一からやりなおすなんて、到底無理な話だ。
 ぼうっとしていて、気がつけば、スタジオの予約時間が過ぎてしまっていた。慌てて立ち上がって、受付に行き、手続きを済ませて鍵を借りる。それを持って、指定のスタジオに向かった。
 高之はまだ来ていない。もしかしたら、もう今日は来ないのかもしれない。それでも、借りている時間の間は待ってみようと、琳は狭いボーカル専用スタジオに入った。
 自分のキーボードを取り出して、セッティングをする。椅子に座って、時計を見ながら高之が来てくれるのを待った。
 レンタルしているのは二時間だ。それで来てくれなかったら、メッセージをいれてどこか別の場所で話し合おう。そう考えた。
 彼のことだから忘れているのかもしれないし、琳に会いたくないのかもしれない。
 まださっきの出来事から数時間しか経っていなかったから、腹を立てていて、顔も見たくないと思われているのかもしれなかった。
 沈んだ気持ちでため息を洩らしていたら、不意に目の前のドアがあいた。顔を上げれば、待っていた相手が入り口に立っていた。
「高之さん」
 琳は立ち上がって、思わず名を呼んだ。
 高之は琳がいることを予想していたのだろう、慌てることなく、スタジオの中に入ってきた。俯きがちにして、琳とは目を合わせないようにしている。それを見て、はっと身を引いた。さっきの自分の姿を思い出して急に恥ずかしくなる。
 数時間前、自分はベッドの中で裸でいた。それを高之は目の当たりにしていたのだった。
「……あの」
 それでも、話をしないわけにはいかない。きちんと説明をしてわかってもらって、明日のライブに備えてもらわないといけなかった。
 勇気を振り絞って、琳は重い口をひらいた。
「ごめんなさい、高之さん、……黙っていて……」
 高之が、警戒するようにちらと視線を向けてくる。
 不機嫌そうだが、どちらかというと気まずそうにしていた。てっきり怒り狂っているとばかり思い込んでいた琳は、その姿を意外に感じた。
「高之さん、あの……」
「いつからだよ」
「え?」
「いつからあいつとデキてたんだよ」
「……それは」
 琳が言いよどむと、高之は大きくひとつ、ため息をついて見せた。
「騙してたんだな、俺のこと」
「そんなつもりはないです」
「でも、隠してたんだよな」
「……」
 高之は、ポケットに手を突っ込んで入り口に立っていた。琳を責めるというより、その口調はまるで傷ついているかのように聞こえた。
「敲惺が、そんなによかったってわけか」
 苦いものを噛み潰したような笑顔になる。
 自嘲するようなその変化に琳が違和感を感じたとたん、高之が思いがけないことを訊いてきた。
「――で、いつ、ふたりでエンジュを抜けるんだよ?」
「えっ?」
「お前、敲惺とふたりで、エンジュを辞めるんだろ?」
「なん――」
「さっき、牧村とその相談してただろうが」
「……あ」
 琳は、先ほどの牧村との会話を思い出した。彼に、自分のバンドに来て欲しいと頼まれて、上の空で考えておきますと返事をしてしまったことを。
「さっきの話を聞いていたんですか?」
「ああ。悪かったな。俺がここに来たら、ちょうどお前らがその話をしていたんだよ」
「いえ――。聞かれてたのは、いいんです。別に気にしません。けど、それは誤解だから……」
「なにが誤解なんだよ」
「敲惺も、おれもエンジュを辞めたりなんかしません。牧村さんには、うちにこないかって誘われたけれど、ぜんぜん行くつもりなんかないですから」
「嘘つくなよ」
「嘘じゃありません。嘘なんかついてないです」
 琳は慌てて釈明した。けれど高之は信じようとせず、琳の言葉の揚げ足をとった。
「――『ウソじゃありません。ウソなんかついてないです』、ってか。琳、お前は本当に、嘘ばっかりだな」
「え?」
「俺は以前、お前に敲惺はゲイじゃないかって聞いたよな。そのとき、お前はなんて言った? 違うって言ったよな。それにそのあとで、敲惺に手を出されたら俺に言えっていったときも、お前はそれを隠したよな。二度もそんなことされて、それで今日もバンドを抜けるのかって聞いて、辞めたりしませんって返されたって信じれると思うか?」
「あ……」
 琳は力なく首を横に振った。
 確かに今までは、高之に隠しごとをいくつもしてきていた。けれど、こればっかりは違う。琳も敲惺もエンジュを辞めるつもりなんてない。
「これだけは嘘じゃないです。信じてください。おれはエンジュを辞めたりなんかしません」
「『ウソじゃないです、信じてください』って? ――お前、おれをなめてんのか?」
「高之さん」
 高之が一歩踏み出して、琳に近づいてきた。狭いスタジオで、琳の後ろは防音壁になっている。高之の眸に怒りが湧いてきていた。
 さっきとは明らかに雰囲気が変わっている。
「琳、お前は俺が人に馬鹿にされるのが大っ嫌いだってのはよく分かってるよな」
「……はい」
「ならお前、俺と敲惺、どっちの言うこと聞くんだよ」
「どっちって……」
「敲惺と、俺の、どっちにつくのかってんだよ」
「そんなの……」
 無理に決まっている。どちらかなんて、選ぶことはできない。
「敲惺に決まってる、ってか?」
「違います」
「じゃあ、俺のとこ、戻ってくるんだな」
 琳は震える瞳で、高之を見上げた。
 戻るとはどういうことか。以前のように、報われないままに奉仕しろということなのだろうか。
 けれど、バンドの中でということなら、いままでずっとそうしてきたように、これからも、エンジュのために、高之に楽曲を提供していくつもりだった。
「あいつはエンジュを辞めさせる」
 予期していた最悪の提案に、琳は思わず高之に駆けよった。
「それだけはやめてくださいっ。今、彼が抜けたらエンジュはデビューできなくなる」
「代わりのドラマーを入れる。ゲイじゃない奴をな」
「お願いです。明日にはワンマンライブもあるのに。それだけは許してください。おれは本当に辞めるつもりなんてないです。だから敲惺を辞めさせるのだけは――」
「お前のいうことは信じられない」
「高之さんっ」
 言いつのる琳の胸元を掴んで、高之が怒りでさらに表情を変えた。



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