エンジェルを抱きしめる 30
「どいてくんねえかな。シャワー浴びにいきたいんだ」
先に喋ったのは敲惺のほうだった。
寝室の入り口から、敲惺をよけるようにして人影が入りこむ。琳はそのときドアのほうに半身をさらけだしていた。
何もまとっていない白い肢体を、肩から腰、足の下まで上掛けから露出させていた。
「高之さん……」
そこに立っていたのは高之だった。
琳の前に現れた高之は、強張った表情でこちらを見てきた。言葉もなく、ただ目を剥くようにして凝視してくる。今見ているものが信じられないといった顔で、その場に立ち尽くしていた。
琳は逃げ出すこともできずに、上掛けを胸元に引きよせた。今までここで、ふたりがなにをしていたのかは一目瞭然だ。
高之がいつ、部屋にきたのかは全くわからない。けど、さっきのふたりの会話を聞かれていたとしたらもう、弁明の余地はなかった。
「用があるのか? あるんだったらさっさと済ませて帰ってくれないかな」
横に立つ敲惺が、軽くあしらうようにして告げる。
高之は首を捻って、相手を見上げた。狼狽して、なんと言い返していいかわからないという顔をしている。もう一度、視線を琳のほうに戻してきた。
その目に宿っていたのは、裏切りに対する怒りではなかった。軽蔑でもなく、諦めでもなく、――ただの、怯えだった。
敲惺はふてぶてしいほど落ち着いた様子で、傍らに立つ高之を冷視した。
「用がないなら出て行けよ」
駄目押しのように言い放つ。高之はそんな敲惺を一度だけ睨みつけ、そうして、琳になにか言いたげに眸を向けた。それでも、なにも言わずに踵を返す。
走るように廊下を抜けて、玄関ドアをあけると、すぐに外へと出て行った。
「琳」
敲惺がベッドまでよってきて、肩に手をおく。
琳は上掛けを握りしめ、どうしていいのかわからなくて、視線をうろうろと彷徨わせた。
「……どうしよう」
「琳、大丈夫だから。落ち着いて」
「どうしよう、高之さんにばれた。――どうしよう……」
ベッドに腰かけた敲惺が、琳を抱きよせた。
混乱する琳を鎮めようと、肩口を労わるようにさすってくる。琳は動転して、小刻みに身体を震わせながら意味なく立ち上がろうとした。
それを制するように優しくとどめて、敲惺が言い聞かせてきた。
「琳、大丈夫だ。怖がる必要なんてない。俺がちゃんとついてる。高之に知られたって、怖くなんかないよ。あいつには、いつかばれることだったんだ。遅かれ早かれ。けど、あんな奴に知られたからって、どうってことあるもんか。もしなにか言ってくるようなら、俺が言い返してやるから」
琳は慄くようにして、顔を上げた。
「……だめだ。敲惺が言っちゃだめだ。また言い争いになる。喧嘩になったりしたら大変なことになる。だから……それだけは嫌だ」
「琳」
首を横に振りながら、絶対にやめて欲しいと懇願する。ワンマンライブを明日に控えて、もし、ふたりの間になにかあったとしたら。取り返しがつかないことになる。
「……おれが、自分でちゃんと、話をつけるよ」
「……」
「こうなったのも、おれが、こうしたいって、望んだからなんだ。……だから、きちんと高之さんに話して、……わかってもらう」
「一緒に行くよ」
「絶対に駄目だ」
強く否定すれば、なにかあるのかと敲惺が訝しげな視線をよこす。
敲惺は知っているのだろうか。明日のワンマンライブに、エリシオンの人たちが来ることを。純太郎は敲惺にそのことを、もう告げているのだろうか。もし、敲惺がまだ知らないとしたら、それを、今このときに自分が言っていいものかどうか――。琳には判断がつかなかった。
ライブ前にごたごたは絶対に避けたい。それも、自分が原因ならば、なおさらだ。
「今日、夕方から、高之さんが貸しスタジオのボーカル専用の部屋を借りてる。ライブ前はいつもそうなんだ。それに、おれもキーボードを持っていって付き合うことになってる。……だから、その時に話す。……高之さんが、来てくれればだけど」
「来なかったら?」
「その時は、……メッセージ送って、会ってもらう」
まだ心配げに見てくる相手に、琳は決心したように言った。
「敲惺は、高之さんになにも言わないで。おれが、ふたりのこと、ちゃんと話すから」
いつかは分かってしまうことだったのだ。それが、運悪く今日だった。悔やんでも仕方がない。チェーンをかけ忘れたのと高之の訪問が重なったのは予期せぬことだったのだから。
「……わかった」
今この時期に、問題を起こしたくないという琳の気持ちだけは伝わったらしい。敲惺は、琳の提案に納得してくれた。
ふたりでシャワーを浴びて着替えを済ますと、敲惺はいったん家に戻ると言った。それで夜にもう一度ここに来るという。琳は、高之との話し合いがどうなるかわからないから、自分の家で待ってて欲しいと頼んだ。
もし、高之とこの部屋で話すことになったら、敲惺がいたら絶対にまずい。
「話し合いがどうなったのかは、ちゃんとメッセージで送るよ。だから心配しなくていいから」
琳が笑顔を作れば、敲惺は仕方なく頷いた。
玄関先で抱き合って、軽くキスをする。
まだ離れがたそうな敲惺を送り出して、琳は重く沈んだ心境で貸しスタジオに出かける準備を始めた。
高之とどんな話をしたらいいのか、琳にはまったくわからなかった。
なんと言って高之を説き伏せたらいいのかも思いつかないまま、夕刻まで部屋で過ごし、それから貸しスタジオに向かった。
予約時間よりも三十分近くはやく、現地に着く。高之はまだ来ていなかった。いつも時間ギリギリか遅れてくる人だったから、琳は自販機でペットボトルの水を買ってフロント脇のロビーに座って時間まで待つことにした。
観葉植物に囲まれた一角で、ぼんやりと時間を潰す。
今日の練習では、三畳ほどの狭いボーカル専用のスタジオを借りている。キーボードはレンタルできるが、琳は自分のものを持ち込んでいた。本番を控えて、琳と最終チェックをするのが、いつもの高之のやり方だった。
明日のことについては、純太郎がきちんと準備を進めているだろう。打ち合わせのメッセージも沢山きている。六時半開演のステージのためには、昼ごろには会場入りしなければならないはずだった。そんなことをとりとめもなく考えていたら、後ろから「琳」と、聞き覚えのある声で呼ばれた。
振り返ると、ふたりの男が後ろに立っていた。ひとりは以前のエンジュのメンバーでギターを担当していた牧村だった。顔を合わせるのは、三ヶ月ぶりほどかもしれない。もうひとりは知らない人で、ふたりともギターケースを抱えていた。
「牧村さん……」
立ち上がって、小さくお辞儀をした。牧村は琳よりふたつ年上で、高之とは同い年だった。
「久しぶりだなあ。元気にしてた?」
「あ、はい」
控えめな笑顔で対応する。けれど、心の中では、まずいな、と感じていた。
牧村は以前、高之と揉めてエンジュを辞めている。だから、高之のことをよく思っていない。まだ時間的に高之がくる気配はなかったが、ここでふたりに鉢合わせして欲しくなかった。それでなくても今は大きな問題を抱えている。高之の機嫌を、辞めていったメンバーとの再会で悪くしたくなかった。
なるべく早く話を切り上げて、スタジオに移動したい。けれど、牧村は琳にここで会えたことを喜んででもいるかのようにさらに話を振ってきた。
「そっちのほうはどう? 新しいメンバーが入っただろ? うまくいってる?」
笑顔で話しかけてくるのを無碍にもできず、琳は、「はい」と当たり障りのない答えを返した。うまくいってるとは言いがたかったが、ここで昔のメンバーにそんなことを告げるつもりはなかった。
「一色迅さんと、青芝敲惺だろ? 新しく入ったの」
「え、知ってるんですか?」
「一色さんは、前から顔見知りだったし、青芝のほうは、名前が知れてるから」
「そうなんですか」
牧村がふたりのことを知っているとは少し驚きだった。しかも、敲惺のほうはドラマーとしての知名度がそれなりにあるらしい。
「青芝は、エンジュに入る前には、色んなところから声がかかってたはずだよ。それ蹴って、たしかエンジュに行ったって噂」
「それは……知りませんでした」
相変わらず世間には疎いな、と言われて、苦笑して返す。
敲惺からは、エンジュに自分から入りたいと思って来たとは聞いていたけど、裏でそんな話があったとは知らされていなかった。敲惺は、本当にエンジュを、琳の曲を選んで来てくれていたのだ。
「それで今日は、ここでリハ? ひとりで?」
「あ、いえ。……ボーカル練習に付き合って」
「ああ……」
高之の練習に伴奏をするのは、昔から変わっていない。牧村もそれは知っている。まだ、いいように使われていると思われたのかもしれなかった。
それに少しだけ思案げにしてから、牧村は琳の顔色を窺うように言ってきた。
「琳さ」
「あ、はい」
「前に、俺が頼んだこと、覚えてる?」
「――え?」
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