エンジェルを抱きしめる 32(R18)
「琳」
琳が目を剥くと、きつくそれを締め上げてくる。
「そんなにあのドラマーがイイのかよ」
「……敲惺はエンジュに必要です」
「必要なのは、お前にだろ?」
「……」
首を振って、否定するべきだった。必要なのはエンジュになのだと、そう言うべきだった。
けれど、嘘つきだとそしられて、これ以上自分をいつわることができなかった。敲惺は、今の自分にとって必要な人間だった。付き合うことができなくなったとしても、傍にいてほしい存在だ。離れたくはなかった。
答えられない琳に、高之は苛立ちをにじませた。
「敲惺はエンジュから追い出す。けど、琳、お前がエンジュを抜けるのはダメだ。許さない」
「おれは、エンジュを抜けたりしません」
「ふたりそろって抜けるつもりだったんだろうが」
「違いますっ」
「最初から俺とお前で十分だったんだ。エンジュは。それを純がバンドの方針だとか言い出すからこんなことになったんだよ」
「高之さん……」
掴まれていた上着を、高之が一段と強く自分の方へと引きよせた。
「琳、今更、お前をほかのやつに渡す気はねえよ」
「え……?」
「ゲイセックスはそんなにいいのかよ」
「な、なにを」
「お前がずっと惚れてたのは、俺にだろ? それなのに、あとから来た奴に急に乗り換えるなんて、そんなにあいつのモノがよかったのかよ?」
「高之さんっ」
「ヤレれば誰でもいいのか? さっきだって、俺が行く前はふたりでヤリまくってたんだろ?」
「そんな……違います、やめてください」
身をよじって逃げようとしたけれど、それを離さず、さらにきつく顔をよせてきた。
「琳、お前がずっと俺のこと、どんな目で見てきたのか知らないとでも思ってんのか」
いたたまれなくなって背けた顔に、高之は構わず唇を近づける。
「いつでも突っ込んでくださいって顔してたじゃねえかよ。え?」
「してません……」
「挿れてやろうか?」
「勘弁してください」
「男になんか、挿れる気になれねえけど、琳、お前にだったら俺はヤレるぜ」
「ほんとに……、勘弁してください」
高之が琳の胸元を押して、乱暴に床に引き倒した。琳は声を上げることもできずに楽器の足元に転がった。それに高之が覆いかぶさってくる。
両手を押さえ込まれて、身動きができなくなった。
「琳、お前、いままで俺で何回抜いた?」
「……うっ」
触れて欲しくないことを口にされ、反射的に身体を強張らせる。
「挿れてやるから俺んとこ戻ってこい」
「嫌ですっ」
「ずっとそうして欲しかったんだろ」
「嫌だっ」
抵抗する琳を体重で押さえ込んで、高之は琳の穿いていたチノパンツのジッパーに手をかけた。
琳は恐怖で竦みあがった。高之は本気で自分を犯すつもりなのだろうか。ゲイは死ぬほど嫌いなのではなかったのか。緩められたボトムの間から手を差し込まれて、下着ごと引き下げられると、現れ出たものをいきなり痛いほど握りこまれた。
「いっ……、痛いいっ。やめて下さいっ」
「琳」
「高之さん、お願いですからやめてください。こんなことしないで……っ」
「よくしてやる。これからは俺がちゃんとよくしてやるから」
「……嫌だっ」
「だから俺から離れんなよ」
「離してくださいっ、やめてっ、離して」
「琳、俺を捨てないでくれ」
「ああっ――」
無理矢理に扱かれて、苦しくて、嫌悪感しか湧いてこなかった。逃げようにもお互いが縺れ合い、余計に高之の手の動きを許してしまっていた。
つらさに顔を歪めながら、どうにかして逃れる方法はないものかと、ドアのほうを見上げた。人には見つかりたくはなかった。けれど、助けは欲しかった。
誰か、通りがかってくれないか、なにをしているのかと一声でもかけてくれれば、高之も正気を取り戻すのではないかと、琳はドアに付いたガラス窓に視線を投げた。
その時、誰かが部屋の前を通りがかるのが見えた。誰かは分からない。けれど琳は気づいて欲しくて、身体を思い切り持ち上げた。それに、窓の向こうの相手が反応する。一度、通り過ぎた相手が引き返してきて、なにごとかと窓を覗き込んできた。
「迅さんっ」
琳は大声を上げて、相手を呼んだ。
廊下にいたのは迅だった。琳の声は聞こえていなかっただろう。けれど、琳は「助けて」と大きく口をあけてもう一度叫んだ。
窓の向こうの迅が驚いて、すぐにドアをあけて中に入ってきた。
「おい、なにしてるんだ?」
問いかけられて、高之が弾かれたように身を起こした。
振り向いて、そこに迅がいることに面食らった顔をする。琳からあわてて離れると、取り繕うように起き上がった。
高之が急に立ち上がったせいで、琳のむき出しの下肢がまともに露出した。それに迅がぎょっとなる。琳が急いでボトムを引き上げると、迅は高之に視線を移した。
明らかに狼狽していた高之は、手を腰にこすりつけるようにしながら言い訳した。
「……ちょっと、ふざけてたんですよ」
動揺しながら強張った笑顔を作ってみせる。けれど、ふざけた感じでないのは明らかだった。
「なあ、琳」
それでも振り返って同意を求めてくる。琳は、ジッパーを引き上げながら青い顔で頷いた。
「冗談ですよ。本気じゃない。――いつも、こうやってふざけてるんです。俺ら、仲いいから」
肩を竦めて、なんてことはない、という顔をしてみせる。
けれど迅は疑いの目を解かなかった。高之に対して、信じられないものを見るような目つきを向ける。
「――じゃあ、俺はこれで」
訝しげな表情の迅に、ぺこりと挨拶すると、高之はそのまま逃げるようにして、さっさと部屋を出て行ってしまった。残された琳は、乱れていた服装を整えて、椅子を支えによろりと立ちあがった。
「琳、大丈夫か」
高之が去ったドアを見ていた迅が、琳のほうに向きなおると訊いてくる。
「……大丈夫です。なんでもありませんから」
まだ足が震えていたが、なんとか平静を装ってそれに答えた。
「あいつ、なにしようとしてたんだ? 本当にふざけてただけなのか」
「……ふざけてただけです」
それでもまだ、部屋の中には異様な雰囲気が漂っている。
琳はそれを取り払うように、平気な顔をしてみせた。
「いつもの、悪い冗談です。それがちょっとエスカレートしただけで、大したことありません。高之さんって、ああいうひとだから。時々……度のすぎたいたずらしてくる……んです。――おれは、なんとも……ないですから」
高之の行状は、迅もよく分かっている。悪ふざけが度を越しただけなんだと、琳は笑ってなんでもないと念を押した。そうしないと、噛み合わなくなった歯の間から、嗚咽があふれだしそうになっていた。
「……すみません。これは、忘れてください」
琳が頭を下げて謝ると、迅はもう、それ以上は深く追求してこなかった。
スタジオを後にして、家に戻るあいだも、琳は嫌悪感から震えが止まらなかった。
マンションにたどりつくと鍵とチェーンをかけて、荷物を框に放り出し、まっすぐリビングのソファに倒れこんで丸まった。
誰にも会いたくはなかった。高之にも、迅にも純太郎にも、――敲惺にも。
高之があんなことするなんて考えもしなかった。あの人は、ゲイを死ぬほど嫌っていたはずなのに、なぜあんなことをしてきたのか。『琳だけはちがう』と前から口にしていたけれど、あんな風に無理矢理に行動に移すなんて、想像だにしなかった。
本当に、彼はゲイを嫌っていたのか。ただ馬鹿にしていただけじゃないのか。だからあんなことができたんじゃないのか。
琳は敲惺に会うまでは、ずっと高之のことが好きだった。確かに、彼とどうにかなりたいと願ったこともある。さっき彼が言ったように、触れて欲しいと何度も熱病のように望んだこともある。
けれど、あんなことはしてほしくなかった。
琳の人間性を否定するような言い草で、乱暴しようとするなんて、酷いとしか言いようがない。
両腕で自分の身体を抱きこんで、琳は小さくなって震え続けた。
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