エンジェルを抱きしめる 33


 それでも、何事もなく帰ってこれたのだから、忘れてしまえばすぐに楽になれると、時間をかけて自分自身を無理矢理納得させた。
 明日にはライブがある。初めての、エンジュだけのワンマンライブ。レコード会社の関係者も何人も観にくるのだから、失敗だけはしたくない。自分さえなんともなくなれば、高之だって、さっきのことは気にしないだろう。
 そう思って、急に高之が今、どうしているのかが気にかかった。明日のために、自分はなんとも思っていないと伝えておかなければ。
 高之がもし、ライブに来ないようなことになったら、大変なことになる。高之はエリシオンの人たちがライブを観に来ることを知らないのだ。すっぽかすようなことはまさかしないだろうけど、歌の仕上がりが悪くなるかもしれない。
 琳はソファから起き上がると、スマホを取り出して、高之にメッセージを送った。
『さっきのことは気にしていません。だから、高之さんも忘れてください。明日のライブはちゃんと全力を尽くします。誤解させるようなことを言ってすみませんでした』
 それだけ打ち込んで送信し、返事がくるのを待った。
 夕暮れが迫るころまで、高之からの返信はなかった。琳はずっとどこにも行かず、緊張したまま連絡を待ち続けた。
 敲惺にも、電話をしなければならない。きっと向こうも琳からの知らせを待っているはずだ。けれど高之のことがきちんと収まってから、敲惺には連絡をしたかった。ふたつも一度に心配を抱え込んだらたぶん、どちらもうまく対処できなくなる。自分は口下手だし、今敲惺に連絡したら、きっと泣いてしまうだろう。そうしたら何があったのか問いただされる。高之にされたことを、敲惺には絶対に知られたくなかった。
 窓の外が闇に包まれる時刻になってやっと、高之からの返信がきた。
『さっきは悪かった』
 文面はそれだけだったが、琳は返事がきたことに安堵した。すぐにもう一度メッセージを打ち込む。
『スタジオでは誤解させてしまったけど、おれはエンジュを絶対に辞めたりしません。エンジュでメジャーを目指すつもりでいますから、これからも歌を作ります。だから、さっきのことはなかったことにしてください。おれが上手くいえなかったから、かくしてたことがあったから、高之さんに誤解させてしまって、悪かったと思ってます。明日のライブは全力で臨みますから、だから、今は、高之さんもライブのことだけ考えてください。お願いします』
 長文で自分が思っていることを伝える。琳の本心をちゃんとわかってもらえるだろうかと不安になったけれど、言葉に嘘はなかった。
 しばらく待ったが、返事がこない。琳は心配になって、重ねてメッセージを画面上に作った。
『そのあとのことは、高之さんの言うとおりにします』
 さすがに、この文章を送信するときは躊躇った。けれど、これもまた本心だった。
 自分にとって一番大切なのは、バンドだ。そのことは活動を始めた昔から、そうしても今も変わりはない。
『わかったよ、琳。明日はお互い精一杯やろうな』
 送信後、高之からのメッセージがすぐに返ってくる。会話を終えて、琳はほっと一息ついた。
 高之が怒りを静めてくれた。それで、明日のライブは頑張ろうと言ってくれた。これでなんとかなる。
 自分のことは後回しでいい。傷つけられることも厭わない。ひどい言葉を投げつけられても、無体な扱いを受けても気にしたりしない。明日さえ、無事に乗り越えられれば。
 琳は握り締めていたスマホを、もう一度持ちなおした。
 敲惺に、連絡をしなければならなかった。大丈夫だったと、一言伝えないといけない。
 けれど、琳はそれができないでいた。先程の会話で、琳は高之にライブの後は言うとおりにすると伝えてしまったのだ。
 それは、敲惺に対する、明らかな裏切りだった。
 高之と敲惺、どちらを取るのかと問われて、琳はバンド存続のために、高之を取ったのだ。メジャーデビューを控えて、その切符を手に入れたいがために、敲惺の気持ちを切り捨てた。あんなに優しくしてくれていたのに、それを踏みにじるような真似をしてしまった。
 高之は敲惺を辞めさせるだろうか。でも、契約の話になれば、純太郎や大久保がそれを止めてくれるんじゃないだろうか。多分そうなるだろう。そうなったら高之の勝手でドラマーを追い出すことなんてできなくなる。
 それでも、どちらにしてもリーダーの意向に従わねばならないのなら、敲惺とは別れることになるに違いない。だとしたら、ふたりはどうなるのか。
 敲惺をきっと傷つける。琳の傍にいたいと言ってくれた、いつも自分を護ってくれた彼を、きっと、琳が弱いせいで、傷つけることになる。
 その時、琳のスマホがメッセージを受信した。見てみるとそれは敲惺からで、電話が欲しいとあった。おそらく待ちすぎて痺れを切らしたのだろう。琳は心が定まらないままに、敲惺へ電話をかけた。これ以上、待たせて心配をかけるわけにもいかない気がした。
『琳』
 気遣うような声が聞こえる。それに、罪の意識で押しつぶされそうになった。
「……敲惺」
『どうなった? 大丈夫だった?』
「……うん。話をして、ちゃんとわかってもらった」
『本当に?』
 琳の言葉を信じていないように、驚いた声を出す。
「とにかく、明日のライブだけを、今は考えて欲しいって、お願いした」
『そうか』
「その後のことは……どうなるのか、まだ、わからない」
『うん』
「エンジュのリーダーは、あの人だから」
 敲惺は電話の向こうで黙っていた。これからのことが不透明になり、思う所もあるのかもしれない。
『琳』
「うん」
『高之の言いなりになるつもりなんか、俺はないから』
「敲惺」
『今から、そっちに行ってもいい? すぐ家を出るから。ふたりでこれからのことを話し合おう』
「敲惺、だめだ、待って、来ないでいいから」
 今は会いたくはない。会ってしまえばきっと、何があったのかばれてしまう。そんな気がする。
「明日、明日のライブが終わってからにして。今は余計なこと考えたくはないんだ。だから、明日、ライブの打ち上げが終わったあとに、そのあと家に来ればいいから」
『……』
「その時に、話し合おう。――その方が、落ち着いて、色々、考えられるから」
 まだ納得いかない様子で、電話口で逡巡する様子が感じられる。それでも、琳は、明日にして欲しいと頼み込んだ。
「今日はもう、疲れてるんだ。だから、早く休みたい。それに、明日になればまた会えるんだし」
 疲れていると伝えれば、敲惺は昨夜からずっと琳に身体的にも無理をさせていたことを思い出したのだろう。それ以上は強く言ってこなくなった。
『……わかった』
 確かに、今日一日で色々なことがありすぎた。疲れているといえば、その通りだった。騙しているようで心が痛んだけれど、それでも、ワンマンライブのことが気がかりなのは間違いなかった。
 明日さえ終われば。そうすれば、また事態も変わって、違う考えも浮かぶようになるかもしれない。解決の糸口が、見えてくるかもしれない。そう思うことにして、琳は敲惺との電話を終えた。
 ワンマンライブが成功して、契約が取れれば、きっと今の風向きだって変わる。en-jewelは次の段階にステップアップするのだから、メンバーの意識も変わる。プロになるのだから、些細な人間関係には拘らなくなる。必ず、皆が変われる。
 そう、信じたかった。


 ◇Ⅴ◇


 翌日、敲惺は予定していた時間よりずっと早く、海老名の家を出た。
 ライブを控えて緊張していたこともあったが、それより会場で琳をつかまえて少しでも昨日の話の続きをしたいと思ったからだった。
 電話では思っていることもきちんと伝えられなかった。電話なんかじゃ駄目だ。琳の様子も少し変な感じがしたから、本人の顔をみて安心しておきたかった。
 会場は下北沢の三百人収容のライブハウスMecだった。ここで、今日は他のバンドを入れないen-jewelだけの単独ライブを行う。
 Mecに着くと、敲惺は会場の裏口に向かって建物を回りこんだ。行きかうスタッフらに挨拶して、バックステージパスを手にする。
 教えてもらった控え室に行ってみると、誰もいなかった。琳もまだ来ている様子がない。
 敲惺は部屋を出て自販機を探した。廊下の先にみつけて、コーラを買おうかと思ったら、生憎、飲みたいメーカーのものがなかった。仕方なく缶のコーヒーを購入して、もう一度裏口から外に出た。
 プルトップを引いて、建物の裏口付近で出入りする人たちを眺めながらコーヒーを飲む。それも空けてしまうと、中に戻ってゴミ箱に缶を投げ入れて、また外に出た。
「よう、敲惺」
 背後から声をかけられて、その主を探すと、少し離れた場所で迅が煙草を吸っているのが目に入った。



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