エンジェルを抱きしめる 34


「こんちは」
 近づいていって、挨拶をする。
 暇を持て余していたので、手持ちぶさたにそのまま横に立って何とはなしに今日のライブの話をはじめた。
「緊張してる?」
「まあ、それなりに。迅さんは?」
「俺、めっちゃ緊張してるぜ」
 そんな雰囲気を感じさせずに、にっと笑う。それでも三百人を前にしてのライブには、敲惺も身が引き締まる思いだった。チケットは完売している。それがエンジュの人気の確かさを物語っていた。
「皆はもう来てますか? 控え室に荷物はあったけど」
「ああ、純太郎と高之が来てる。高之は今、もうひとつの控え室で雑誌のインタビューを受けてるはずだよ」
「へえ……」
 あたりを見渡してみれば、少しずつ人の動きが慌しくなってきている。まだ時間に余裕はあったが、待ち人が現れる様子はなかった。
「琳はきてますか?」
 煙草を指に挟んでいた迅が、ん? とばかりにこちらを向く。
「琳はまだ来てないんじゃないかな」
 やっぱり、マンションに寄ってから来るべきだったかな、と敲惺は悔やんだ。昨日は疲れていると言っていたから、ゆっくり休ませてやりたかったけれど、差し入れの朝食でも買って訪問すべきだったかもしれない。
 スマホを取り出して、今どこにいるのか連絡を入れようとしたら、迅がそれを見ながら、声をかけてきた。
「なあ、敲惺」
 目だけ画面から上げて、なんですか? という顔をする。
 迅は大分短くなった煙草を、それでも吸いながら、少し落ち着かなげにこちらに視線を寄越してきた。
「俺は、こういうことを言うのは、あまり好きじゃないんだけどな」
 前置きするように、煙草を揺らしてみせる。
 煙が敲惺のほうに流れないように、気を配りながら、言いにくそうに腕を組んだ。
「それでも、お前とは一緒にエンジュに入ったんだし、いわば、まあ……まだ俺らはまだ、残りのメンツからすればよそ者っぽい」
「はい?」
「ひとりで抱えててもよかったんだけど、やっぱりどうしても、理解できないからさ。お前にも、意見を訊いてみたくって」
「……なにをですか?」
「エンジュの人間関係についてさ」
 敲惺はその言葉に眉根をよせた。
「なんのことですか?」
 嫌な予感がした。
 なにか、迅の気になることがあったのだろうか。それとも自分がなにかしたのか。琳とのことで、公にしたくない付き合いをしていることがバレてしまったのかと心配になる。
「それがさ、俺、きのう本番前にひとりで最終調整しようと思って、いつものスタジオ借りたんだよ」
「はい」
 スタジオ、と聞いて琳と高之もボーカル練習に部屋を取っていたことを思い出す。そこで、ふたりは話し合いをしていたはずだった。
「で、受付すませて、廊下を歩いていたら、偶然、琳と高之の取っていた部屋の前を通ったのさ」
「――ああ」
 ふたりに会っていたのか。
 敲惺は頷いて、「ふたりはどうでした?」と話し合いの様子を尋ねてみた。
「それがだなあ……」
 ほぼ灰になってしまってフィルター部分しか残っていないそれを、迅は上の空で、また口にする。
 敲惺から視線を外して、弱ったといった顔で宙を見上げた。
「理解できんよ」
「なにがです?」
「高之と琳の考えてることがだよ」
「どういうことですか」
「……高之の奴、琳を押し倒してその上に乗っかろうとしていた」
「は?」
 迅の遠まわしな言い方に、敲惺は一瞬、言われた意味がよくわからなかった。
「俺が見たとき、高之は琳の服を脱がせて、事に及ぼうとしていたんだよ」
「事に及ぶ?」
「琳が俺に助けを求めてきた。つまり、襲おうとしてたってことだ」
「高之が?」
「俺がちょうど、見つけたから途中でやめたけど、ありゃあ、見つけられなかったら、琳はヤバかったかもな」
 敲惺は、身体から血の気が引いていく気がした。 
「あとでふたりは冗談だ、っていってたけど、あれは、高之は本気だったと思う」
「それは、高之が、琳をレイプしようとしてたってことですか?」
「俺が見た感じじゃ、そうだったな」
 引いた血が一気に逆流して、怒りに脳髄が沸騰した。
 なにも言わず踵を返し、裏口から建物の中に向かう。後ろから、慌てた迅が名前を呼んできたが、そんなものに返事をする余裕などなかった。
 会場の中を走りまわって、高之のいる部屋を探した。通りがかったスタッフにインタビュー中の控え室のある場所を聞いて、階段を駆け上がって、目当ての所に向かった。
 二階の狭いロビーの一角に、ひかえ室のドアがあった。入り口にスタッフの若い女性がふたり立っている。そこに足早に向かうと、ふたりが、あら、とばかりにお辞儀をしてきた。それを無視してドアをあける。
 あまり広くない部屋にソファセットがおいてあり、そこに高之と雑誌記者と思しき女性が向き合って座っていた。
 傍にはカメラを手にした男性と、純太郎、そしてスタッフらしい男性も一人立っている。敲惺はなにも言わず高之によっていった。顔をあげた高之が、何事かと警戒した視線を向けてくる。本能的に危険を感じ取ったのか、中腰になりかけたところに、力の限りで、頬に一発くれてやった。
 音をたてて、高之がソファから引っくり返った。
 スタッフらの悲鳴が響きわたる。なにが起きたのかまったくわかってない純太郎が、呆然とした顔でふたりを見てきた。
「ってーな。……この野郎」
 起き上がった高之が、ソファを蹴って敲惺に挑みがかってきた。避けることは十分にできたけれど、動かずにいて、左頬に相手の拳を流しながら受けた。高之がそれで体勢を崩して、よろりとテーブルに手をつく。
「琳になにしやがった」
 突き刺すような目で問いかける。
「琳になにしようとしやがったんだよこの野郎」
 それに高之がへっ、と小さくあざ笑った。
 その馬鹿にしたような表情に怒りが止められなくなった。
「Fucking bastard!(クソ野郎!)  殺してやる!」
 胸倉を掴んで、もう一発殴り込んだ。ふたりもつれ合って倒れると、馬乗りになってさらに拳を入れてやる。高之もそれに抵抗して殴り返してきた。
「敲惺、やめろ! やめるんだっ!」
 純太郎が後ろから敲惺を止めようとしたが、はじかれて壁際に吹き飛んだ。誰もが、手がつけられなくて、ただ唖然とした表情になった。
 首を締めあげて、床に頭を叩きつけるようにすると、相手も獣のように吼えて敲惺の首元をつかんでくる。互いが歯を剥いて威嚇しあった。
「てめえはクビだ。今すぐ俺のバンドから出て行け」
「出て行くさ。けど、お前のしたことは許せない」
 高之が唸るようにして笑った。
「でも琳は俺がさわってやったらヨがってたぜ」
 それ以上は言わせたくなくて、拳を捩じ込んだ。指先に鈍い音が響いて、何かが折れた感触がした。それでも、手を止めなかった。
 捨て身の純太郎が敲惺に覆いかぶさったときに、迅も追いついて部屋に入ってきた。集まり出した見物人をかき分けて、敲惺の腕に両手でしがみつく。
「おい、やめろっ、敲惺っ、ほんとに死ぬぞっ」
 それでやっと、敲惺も振りあげた拳を止めて、大きく息をついた。
 高之は崩折れたまま、動かなくなっていた。それを、スタッフの男性がおそるおそる抱え起こす。高之の顔を覗きこんで、その酷さに「うっ」と低く呻いた。
「……病院に連れてったほうがいい」
 項垂れた高之の顔からは、血が滴っていた。敲惺の拳も、高之の血で濡れている。周りが騒然としてきて、車を用意しろとか、小さな悲鳴やら、なにがあったのかと問いただす声やらが行き交いはじめた。
「これはどういうことだよ、一体……」
 喧騒の中で、立ち尽くす純太郎が足元に壊れてころがる眼鏡を見ながら呟いた。敲惺の腕を掴んだままの迅も、高之の惨状に眉をひそめた。
「おい、なにがあったんだ」
 入り口から、怒鳴りながら入ってくる男性がいる。大久保だった。
 人が入り乱れる狭い部屋の中で、誰もが、なにが起きたのかわからないで顔を見合わせた。男性スタッフが気絶しかかっている高之を運んでいく。周りの人間たちが道をあけてそれを見送った。
 敲惺はすぐにトイレに向かい、手を洗った。高之の血をきれいに洗い流して、もう一度さっきの部屋に戻る。
 入り口に群れているスタッフらの後ろに、茫然と立つ琳の姿を見つけた。



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