エンジェルを抱きしめる 35


◇◇◇◇


 その日は、それから夕刻まで慌しさに忙殺された。
 純太郎はライブ中止の知らせをしてから、チケットの払い戻しについて、大久保から細かい指南を受けた。琳たちは雑誌記者や会社関係者に謝罪してまわって、その後はまた、大久保と今後の打ち合わせに時間を割かれた。
 エンジュのメジャーデビューの話は、そこで白紙となった。
 こんなことになってしまって、もう、en-jewelという名のバンドでは、メジャーは望めないと、はっきりと大久保から宣言された。
 病院からの連絡で、高之は入院となったらしかった。その手続き等で、純太郎はずっと頭がおかしくなるほど忙しく動き回っていた。 
 すべてが夢の中のようで、琳はおぼろげな意識のまま、言われたとおりの後始末を手伝った。そうしてやっと少し落ち着いた頃になって、会場をひとり抜けて外に出ると、道路に面した生垣のレンガの隅に腰をおろした。
 夕闇が迫ってきていた。今日は快晴だったらしい。この時間になっても雲は少なく、晴れていつもより暖かかった。
 ライブ日和だったかもしれない。沈む夕日を、ただ、ぼんやりと眺めた。
 本当だったら、今は本番のためのリハをやっているはずだった。いや、この時間なら、それも終わっていたかもしれない。
 この日が来ることを、ずっと心待ちにしていた。メジャーへの足がかりになるはずだった、ワンマンライブ。五年がかりの目標。けれどそれも、泡のように弾けて消えた。 
 気がつけば、目の前に人が立っていた。
 心配げに見下ろすその背の高い相手に、琳は瞳を上げることがどうしてもできなかった。今は会いたくない相手に、このままなにも言わず立ち去って欲しくて、しばらく声をかけないでいた。胸のうちにぽっかりとできてしまった空洞は、誰にも埋めることなどできない。だから、放っておいて欲しかった。
 それでも動こうとしない足元の影は、琳が顔を上げるのを待っている。失意の中で、琳はつい、非難がましく言ってしまった。
「……おれの、メジャーデビューは、どこに消えたの?」
 口にすれば、笑いたいのか泣きたいのか、自分でもよくわからなくなる。込み上げるものは、諦めなのか、それとも未練なのか。混沌とした頭ではそれもわからなかった。
「琳」
「おれのデビュー……返してくれよ」
 責めるべき相手は、敲惺ではないはずだった。
 悪いのは高之で、そうして、それを許していた弱い自分だったんだろう。
 それでも、――それでも、敲惺が耐えてくれていたら、この事態は免れていたかもしれない。
 ライブは今頃、予定通り開催されていた。そう思えば、理不尽とわかっていても恨みがましい思いが溢れ出てきてしまった。
「あんなことするなんて……。どうして、バンドとライブのことを優先して考えてくれなかったんだよ」
「事実を知って、高之のためにドラムを叩けって? そんなことできるわけないだろ」
「……けど、どうして……」
 琳の前にしゃがみ込んで、敲惺がこちらを見てきた。
「あいつは俺の一番大切なものを傷つけて侮辱したんだ。許せるわけがなかった」
「それでも、なんで今日だったんだ……」
 明日でも、その次でも、ライブさえ終わっていれば、そうしてくれれば、何とかなった。それが済んでからでは、なぜいけなかったのか。琳は俯いて頭を抱え込んだ。
 自分はずっとバンドのために、ほかのことを犠牲にしてきたのに。
 なのに敲惺はそれをしなかった。――できなかったのかも知れない。
 ワンマンライブが頭から吹き飛ぶほどの怒りに駆られて、ボーカルの高之を叩きのめして。
 会社関係者が来ることを、敲惺は知らなかった。純太郎は、けっきょく高之にも敲惺にもそのことを知らせていなかった。だから、こうなったのか。いや、多分、敲惺はそれを知っていたとしても、高之に向かっていっただろう。琳が傷つけられたことを許せずに、きっと同じことをしていた。
 敲惺は、バンドよりもライブよりも、琳のほうが大切だったのだ。けど、今まで誰かにそんな風に大切にされた経験のない琳には、それほどまでに大切にされる価値が自分にあるとは、どうしても思えなかった。
 すべてを失った琳には、敲惺の気持ちとやったことが素直に受け入れられなかった。
「もう、en-jewelでは、デビューできない。en-jewelの名前は知れ渡るだろうから、どこのレコード会社も、もう採用してくれなくなる」
 話しているうちに、涙声になってきた。泣くつもりなんてなかった。こんなことで、悔しくて、泣きたくなんかない。
 敲惺は黙っている。なにも言ってくれない相手に、ただ鬱屈だけが募った。
「……ひとりにして欲しい」
 両手で顔を覆って、掠れた声で呟く。今はもう、誰であっても傍にいて欲しくなかった。
「ひとりにしておいてくれよ。お願いだから」
「琳」
「もう、会いたくない……」
 敲惺はしばらくの間、そのままでいた。
 けれどいつまでたっても顔を上げない琳に諦めたのか、その身を起こして、「わかった」とだけ返事をした。
「琳がそうしたいのなら、もう、会わない。……けど、最後にひとつだけ、いいかな」
 琳は応えもせずに、俯いたままでいた。敲惺が首を傾げるようにして、穏やかに琳を見下ろす。
 少しだけ待つようにしてから、口をひらいた。
「琳はずっと、自分の歌は高之しか歌えないって言ってただろ。でもさ、俺はそうじゃないと思ってる」
「……」
 言葉の意味がよくわからなくて、不思議そうな顔で相手を見上げてしまった。
 そうするつもりなんてなかったのに、答えを知りたくて、つい問いかけるような表情であおぎ見てしまう。それに敲惺が真摯な眼差しを向けてきた。
「琳の歌を高之が一番うまく歌えるのは、琳が、高之の魅力を最大限に引き出すように考えて作っていたからって、前に、言っただろ」
「……うん」
 そのとおりのことを言われて、思わず頷く。敲惺は、琳が答えてくれたことに安心したらしく、頷き返してから話を続けた。
「つまり、それって見方を変えたら、琳は歌い手の個性にあわせて、相手が一番映えるような歌を作ることができるってことなんじゃないのか」
「……え」
「俺はずっと、そう思って琳を見てきた」
「……」
「高之以外に、歌を作ってやったことないだろ、琳は。だからそれに気づいてなかったんじゃないか」
 そんなことは考えたこともなかった。
 歌い手にあわせて曲を作り、その魅力を引き出すことができる力。そんな側面から自分を見たことなんて、今まで一度もなかった。
「琳」
 朧がかった思考の中、涼やかに自分の名前が反響する。
「高之のためだけに、歌を作る必要なんてない」
 諭すようにして、敲惺が言った。
「自分の歌は、自分のために作っていくべきだよ」
「……」
 以前、敲惺は琳に、自分と自分の曲をもっと大切にしろと言ったことがあった。そのことがふと思い出される。
「自分で、自分をプロデュースしていくんだ。自分のために歌を作り、それにあうボーカルを琳が選ぶ。そうすれば、きっと、今までよりいい歌ができる」
 思いがけないことを言われて、琳は瞳を瞬かせた。
 ――自分のために、歌を作る。
 高之のためじゃなくて。ただ自分のためだけに――。
 琳の今までに作った歌はすべて、en-jewelというバンドのボーカルのために作られたものだった。自分のために作ったものはひとつもない。
 言われてみれば、自分自身のために創作した歌は、ただのひとつもなかった。



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