エンジェルを抱きしめる 36
空っぽになってしまった心に、そのアドバイスが新しい道しるべのように降りてきた。
すべてが消えて道さえなくなって、一歩を踏み出す気力も今は奪われてしまっているのに、敲惺の言葉は琳の心にすとんと落ちてきてしまった。まるで魔法でもかけるように。
「俺はそう信じてるよ。琳は歌も作れるしアレンジもできる。加えてプロデュースも自分でやれる。いまさら、俺がこんなこと言ってもなんだけど……だったらエンジュはもう、琳には必要ないと思う」
琳が言葉もなく考え込むと、敲惺はそれ以上は何も言わず口をつぐんだ。自分がしたこと、言ったことで、琳を混乱させたり困らせたりするのは、本位ではないらしかった。
瞳を逸らしたままの琳に、それでも笑顔を向けてくる。
最後に、断ち切るようにして別れを告げた。
「じゃあ。……短い間だったけど、一緒に過ごせて楽しかったよ」
敲惺はポケットに手を入れると、寂しそうに微笑んだ。
「琳を傷つけるつもりはなかった。それだけは悪いと思ってる」
外国育ちらしく、無用な謝罪や自己弁護めいたことはいっさい言わなかったけど、やはり琳を傷つけたことは後悔しているらしかった。
琳は瞳をぎゅっと閉じた。相手の率直さが、愛情の深さが、矮小な自分と比べてあまりにも違いすぎていて、顔を上げることができなかった。
さよならの挨拶も、行かないでと言うこともできない。
琳は昨日まで、敲惺を捨てて高之の言いなりになろうとしていたのだ。彼に隷属したままでいて、一番大切な人を裏切って、その夢を分けてもらおうとしていた。それなのに、敲惺のほうは、ずっと自分のことを考えてくれていた。
自分勝手な琳の憤りにも、敲惺は最後まで怒ることはなかった。その優しさが、失ったもの以上に、辛すぎた。
やがて足音が遠ざかり、しばらくすると、自分の前から誰もいなくなったのがわかった。
とじた瞼に痛みを覚えて目をあければ、涙が滲む。
沈みがかった夕日が街並みに反射して、きらきらと紅に燃えていた。
事後処理に追われる純太郎を手伝って、やっと一区切りがついたのは午後十時すぎだった。
琳は純太郎と共に、車の中で遅い夕食のハンバーガーを齧りながら、夕方に行われた大久保と、高之以外のメンバーとの話し合いについて、ぽつぽつと語りあった。
大久保との話し合いでは、琳と敲惺が付き合っていたこと、ふたりの性指向が一致していて、けれどそれは高之が忌み嫌うものであったことが、敲惺と琳の口から三人に明らかにされた。
だから隠していたけれど高之にばれて、琳が嫌がらせをされ、それに敲惺が腹を立てたということを説明すれば、三人は呆気に取られたけれど、高之の性格を知っていたから、二人の言い分は嘘ではないのだろうと納得した。
一日中ごたごたした後始末のせいで、疲れていた皆は琳らの性指向よりもバンドとライブのことで頭が一杯だったらしい。聞くだけ聞いて、あとは何も言わなかった。
敲惺が高之を殴ったとき、琳はその現場にいなかった。喧嘩の原因は、話し合いで明らかにされていたけれど、乱闘の詳細な内容までは琳は知らなかった。
高之が、敲惺に言った琳を蔑むような言葉。『俺がさわってやったらヨがってた』という、相手を貶めるような物言い。それを純太郎は横で聞いていた。
あのときは意味がわからなかったその台詞のことを、純太郎は前後の状況とあわせて、車の中で琳に話して聞かせた。
そこで琳は、はじめて事の顛末を詳しく知ったのだった。
純太郎や迅が止めに入っても、敲惺が怒りを抑えられなかった理由。それは、高之が二人の仲を裂こうとして琳に手をかけたことに加えて、面白おかしく煽るようにして言ったからだった。
「以前にも、同じようなことがあっただろ。だから警戒はしていたんだけどな」
ストローを噛みながら、運転席の純太郎が話してくる。
「以前にも?」
「敲惺が、高之を殴ろうとした」
「……ああ」
琳の部屋でのことだ。あの夜も、敲惺の怒りの原因は自分だった。
今日と同じように、敲惺は自分が侮辱されたからじゃなくて、琳が傷つけられたからといって、怒って高之に挑みかかろうとした。
「あのときにはもう、付き合ってた?」
「ううん。付き合ってなかった」
あの出来事が原因で、付き合うことにはなったのだけれど。
「けれど、さっきもそうだったけど、あのときも敲惺の怒り方は尋常じゃなかったからな。おかしいとは思ってたんだよ」
味のないハンバーガーが、手の中で冷えていくのに任せながら、琳は純太郎の話をじっと聞いた。
「敲惺は、琳のことがよっぽど大事だったんだな」
フロントガラスを見つめたまま、純太郎がぽつりと零す。
それには返す言葉もなく、琳は項垂れた。
純太郎と言葉少なに別れを告げてから、琳はひとりの部屋へと戻った。寒々しいリビングに入れば、その途端、どっと疲れが出てきて、琳はコートも脱がずにソファに倒れこんだ。
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