エンジェルを抱きしめる 37
冷たい布地に顔を埋めて、泣きそうになるのをこらえながら手足を小さく縮こめる。
それでも、涙は溢れてきてしまった。コートの袖口でそれをぬぐいながら、暗い部屋でいつまでもぼんやりと、失ったもののことを考えた。
琳にとって、いちばん大事だったものはバンドだった。すべてに優先して、バンドを守ることを考えていた。エンジュのメンバーでいられさえすれば、夢は叶えられると、そう信じていたから。
そのいちばん大切にしていたものを、敲惺は壊してしまった。それも、彼にとっていちばん大切だった琳を守るために。
琳のことが、何よりも大事だったから、侮辱して傷つけようとした高之が許せなくて、あんな目にあわせた。そのことが、琳からエンジュを奪うとわかっていながら。
闇の中で、目を見開けば、涙のしずくが幾筋もまなじりを辿って落ちていく。
どうしてこんなことになってしまったのか。何がいけなくて、何が間違っていたのか。どうやったらこんなことにならずにすんだのか。
どれだけ考えても、わからなくて答えは出てこない。
うつろな気持ちで長いあいだ横になっていたら、両手や顔がひどく濡れてしまっていた。
ぬぐいきれなくなった涙を拭くために、琳は身体を起こしてティッシュに手を伸ばした。はなをかんで視線を落とせば、ソファの近くに数冊の雑誌が積まれているのが目に入った。
雑誌は傷んで、めくれ上がってあちこちが小さく破けていた。何度も叩かれて、へこんで形を崩している。
敲惺がこの部屋にいるときに、練習のためにスティックで叩いたものだった。
暇をみつけては、雑誌を積んで、それを持ってきたスティックで叩いていた。琳のパソコンに入っている曲に合わせながら、時には自分で口ずさみながら。しなやかに上体を揺らめかせてリズムを取って、手先は曲芸のように短い棒を振って回していた。
ステージ上での、鮮やかなスティックさばきに力強いドラミング。リズムを先導する横顔はいつも真剣で、隙がなく魅力的だった。
琳の曲を気に入ってくれて、どれもすごくいいと褒めてくれた。エンジュにきたのは、琳の歌があったからだと、彼は笑って教えてくれた。
――琳は、もっと、自分と自分の歌を大切にすべきだよ。
ふいに、彼の言ったことが蘇る。高之に金ズルだと陰口をされ、キッチンで琳が傷ついて泣いてしまったとき、敲惺も同じように傷ついた顔をしてそう言った。
琳はソファから立ち上がって、雑誌の横まで行くとしゃがみこんだ。
この部屋には、敲惺が残していったものがいくつもまだある。数冊の雑誌に、スティックにCD。いくつかの着替えに、日用品。敲惺と過ごした日々は、琳にとって初めての、心が落ち着く平穏な、愛情に溢れた日々だった。
彼は絶対に、琳の傷つけるようなことはしなかったから。ただの一度も。いつも優しくて、琳のことを大切にしてくれた。
それを思い出せば、やっと、気がついた。
敲惺にとって、守るべきはエンジュではなくて、琳と、琳の歌だったのだ。
琳は抱えていた膝に、こらえきれなくなって額を埋めた。
だから躊躇いなく高之に挑んでいった。琳を拘束して、いいように扱おうとしたエンジュのリーダーから、琳を解放するために。
きっと敲惺は、はじめからわかっていたのだ。はじめから、琳にいちばん必要なものが、エンジュではなかったことに。
止まっていた涙が、またとめどなく流れだす。
間違っていたのは自分だった。最初から、en-jewelができたときにこのバンドに入ったときから、間違っていたのは、琳の考え方だった。
高之のことが好きだからといって、まるで奴隷と主人のような関係を築いてしまったそこから、歪みは生じていた。彼がボーカルの才能に溢れているからといって、自分勝手な傲慢さを受け入れてしまったときに、琳の間違いは始まっていたのだ。
曲を提供する者と、それを表現する者。ふたりのあいだが対等な関係であれば、こんなことにはならなかった。エンジュはもっと、健全なバンドになっていたはずだった。琳の弱さが、高之を甘えさせ、高慢にさせて結果としてバンドの崩壊を招いたのだ。
自分がもっと強くなっていれば、高之に悪いことは悪いと、だめなものはだめだとはっきりと言い切れる強さがあれば、高之だってあんな事態にさせることはなかった。エンジュに彼を拘束させず、別の可能性だってひらけられたかもしれない。
――琳が強くなれるまで、俺は待つよ。
あの言葉の意味を、もっとちゃんと受けとるべきだった。バンドが壊れることを恐れずに、理解するべきだった。
自分に必要なのは、エンジュからの自立だった。高之とバンドに依存せずに、琳がひとりで立ちあがること。それを彼は望んでいた。
だから、別れの間際まで、そのことを気にかけてくれていたのだ。
流しすぎた涙のせいで虚ろになった思考の中で、琳は何度も、敲惺が残していった言葉の深さを辿ろうとした。
ひとり寒い部屋でしゃがんだまま、自分のしてきた間違いを、いつまでも、いつまでも考え続けた。
◇◇
年末が近づくと、街は活気づいてきた。
寒さは日々厳しくなり、今年は十二月の下旬に一度、都心にも積もるほどの雪が降った。
ワンマンライブ中止の日から、一ヶ月が経っていた。
琳はあれから、バンド活動はやめて毎日をバイトのかけ持ちで過ごしている。家には寝に帰るだけになるくらいシフトをいれて働き続け、自分からは誰とも連絡を取らずに、ひとりで生活していた。
そうして年の瀬も押し迫ったある日、琳はアルバイトの休みをもらった。休日も関係なく働き詰めでいたら、たまには休んだらと店長に言われて、それならと一日オフをもらえば、その日は偶然にもクリスマスだった。
クリスマスなら休みを取りたがる他のバイトがいるんじゃないかと尋ねたら、独り者のバイト仲間は寂しさを紛らわすためか、競ってその前後にシフトを入れていた。
本来だったら、クリスマスライブが入っていたであろうその日に、琳はひとりで街に出かけた。
雪は降っていない。しかし空はどんよりとした曇天で、そのせいで寒さもひときわ身に沁みた。マフラーに顔を埋め、ポケットに手を突っ込んで、ベンチに腰かけたところでスマホが鳴る。
取り出してみば、久しぶりに画面に名前を見る純太郎だった。
『やあ、琳』
「……久しぶりだね、純」
吐く息が白い。スニーカーの足先もさっきから歩きすぎで、痺れはじめていた。
元気にしてるか、と問われて、お互いに近況を報告しあう。琳はバイトに明け暮れていると言い、純太郎は他にすることがなくなって、仕方なく大学に通っていると苦笑した。
それを聞きながら、琳は自分の夢は潰えてしまったけれど、純太郎はどうなのだろうかと考えた。まだこれから、インディーズレーベルを立ち上げるつもりなんだろうか。
聞きたかったけれど、今はまだ早い気がした。お互いが、あの日に負った傷を十分に癒せていない気がしたからだった。
それでも、一ヶ月ぶりの電話は、どういう心つもりなのだろうかと不思議に思った。メッセージでのやり取りはしていたけれど、声を聞かせ合うのには、まだ少し抵抗がある。あのあとも、純太郎は中止したライブの後始末を数週間にわたってさせられたのだ。
けれど純太郎は、それについて不満や文句を言ってきたりはしなかった。
『en-jewelはさ』
諦観した口調で話を続ける。
『遅かれ早かれ、こうなるだろうっていう予感はあったんだよ』
「……」
電話の向こうで、さばさばした様子で告げられた。
琳はそれにちょっと驚いた。純太郎がそんなつもりでいたとは知らなかった。琳自身は、バンドを保とうと必死だったのに、マネージャーである純太郎は以前から壊れることを予期していたのだ。
『まあ、それがあの日だとは思わなかったけれど』
ため息とも、笑い声ともつかない声音が聞こえてくる。
『……エンジュがなくなって、残ったのは借金だけだ』
「それは、おれもきちんと払うよ。なくなるまで責任持ってさ」
『ん。助かる。ま、でもCDも完売したし、皆からも連絡もらってるし。なんとかなると思う』
「困るようなことがあったら、ちゃんと連絡くれよな」
『わかったよ』
あれからエンジュは無期限活動停止の状態になっている。実質の解散だった。
『それでさ、お前はあれから高之に会ったのか?』
訊かれて、琳は少し言葉につまった。
あの事件のあと、高之は二日入院して次の日には警察に被害届を出しに行っていた。そうして、それがエンジュの解散を決定づけた。
「会ってない」
『見舞いにも行ってないんだ?』
「うん。……でもおれ、もう、あのひとに会うつもりはないから」
それに、純太郎が「そうか」とだけ呟いた。
『琳はこの先、どうするんだ』
話題をかえて、純太郎が気遣わしげに尋ねてくる。琳はそれにも返す言葉を持っていなかった。
目次 前頁へ< >次頁へ