エンジェルを抱きしめる 38


「まだ……なにも考えていない」
『また、バンドを組んで、活動する?』
「わからない」
 スマホを手にしたまま、相手が目の前にいないのに、視線を逸らすようにして俯いてしまう。
 音楽は続けたい。けど、バンドを組むつもりは当分おこりそうになかった。しばらくはソロで活動を続けて、まだ自分が曲をちゃんと作れるのかどうか、試してみないと動けそうにない。
 それに、自分のように意志の弱い人間は、少し環境を変えて、厳しくしたほうがいいんだろう。ひとりでなんでもできるようにしないと、また何かあったときに流されてしまうかもしれない。
 部屋もそろそろ狭いところに移ろうと考えていた。今のところは一人暮らしには賃料も高いし、誰も来ないのに広すぎる。
『琳さ、今、それ、話してるのスマホだろ?』
「え? あ、うん」
 なにを訊かれたのかと、一瞬戸惑う。当たり前のことを問われて、なんのことかと顔を上げた。
『琳、動画サイトそれで観れるだろ』
「観れるよ」
『en-jewelで検索したことあるか?』
「いや。ないよ」
 今はまだそんな気になれない。以前は純太郎が色々なサイトにエンジュの情報を公開していたけれど、バンドがなくなった今、ホームページも無期限活動停止と知らせたまま更新が止まっている。
 ネットではあることないこと噂が飛び交うから琳はなるべく見ないようにしていた。いきなりのバンドの活動停止は、あの日、目撃者が多数いたことでウェブ上の色々なところで話題にあがっている。
『俺はもう、今はなにも投稿していないんだけどさ、エンジュの四枚目のCDをどこかの誰かがアップしてるんだよ』
「……へえ」
『著作権ももういいかなと思って好きにさせてあるんだけどさ、琳、それ観てみろよ』
 今更という気もしなくなかった。消えてなくなったバンドの楽曲。多分、ネットでもエンジュは噂になっているから興味半分で聴きにきている人がいるんだろう。
「うん」
『改めて聴くとさ、やっぱ、いいよ。俺らの歌はさ』
 それに琳は微笑んだ。身内びいきであっても、その言葉は嬉しかった。
『琳』
「ん?」
『今、やめたら終わりだぞ』
「……」
『エンジュはなくなったけど、お前の作った歌を、毎日、聴いてくれてる人がいる。カウンターは回り続けているから、どんな形であっても、お前の歌を聴きたいと思ってくれている誰かが、どこかにいるんだよ。今、この時もさ』
「純……」
 励ましてくれているらしく、いつもの純太郎らしくない熱い語り口調に、琳も思わず口元が綻んだ。
「ありがと」
 鼻をすん、と鳴らすと、スマホの奥から笑い声が聞こえてくる。
『また、なにか始めようと思ったら、連絡くれよな。大久保さんも琳が動き出したら連絡欲しいって言ってたから』
「……うん。わかったよ。ありがとう」
 もういちど礼を言って、琳は電話を切った。
 ポケットからイヤホンを取り出してスマホにつなぐ。動画サイトを検索すれば、確かに琳の歌がそこに投稿されていた。その、画面に表示された閲覧者数。琳はそれを、じっと長い間、見つめていた。
 純太郎は、en-jewelが解散するのを予感していたと言った。遅かれ早かれそのときは来ると。だとしたら、en-jewelは壊れるべくして壊れたのかもしれない。
 そうして、en-jewelがなくなって初めて、琳は自分自身と向き合えるようになれた。
 高之と彼のバンドからの呪縛がなくなって、自分がいかに状況に流されて、いいように使われて、意思なく弱かったのかが、よくわかるようになった。
 それまでも、そのことは解っていたつもりだった。けれど、琳はそれでもいいと思い込んでいた。
 本当はそんなことは間違っていたというのに。
 それを教えてくれたのが、新しく来た、あのドラマーだった。
 スマホでエンジュの歌を再生させてみる。歌っているのは高之だ。やはり、いい声をしている。彼もまた、才能があったのに。
 あの日、スタジオで琳を押し倒してきたとき、高之は琳に「俺を捨てないでくれ」と叫んだ。あの時の高之はなにを考えていたのだろうか。
 琳のほうはずっと、高之に捨てられるのが怖かった。ボーカルである彼が自分から離れていってしまったらもう、琳の歌を表現してくれる人はいなくなってしまうからと、それをいつも恐れていた。
 けれど、もしかしたら、琳がそれを恐れていたように、高之もまた琳が離れていくことを恐れていたんじゃないだろうか。高之には琳の歌が必要だった。だから琳が敲惺と一緒にエンジュを抜けることに怯えて、引き止めるためにあんなことをしたのかもしれない。
 本当の理由を、もう知ることはないのだけれど。
 バンドが解散して、ひとりきりになって、夢も泡沫と消えてしまった。寒さに凍える今になって、去っていった彼の言葉が何度も蘇ってくる。
 ――琳はさ、いいもの持ってるよ。音楽的に。だからそのセンスは大事にしなよ。失わないように。
 ――琳はもっと、自分と、自分の歌を大切にするべきだ。
 ――自分で、自分をプロデュースしていくんだ。そうすれば、きっと今までよりいい歌ができる。
 エンジュにいた時、琳はそれ以外の世界があるなんて思ってなかった。エンジュがなくなったら自分の居場所もなくなると、そう思い込んでいた。高之が自分の歌を歌わなくなったら、琳の作った歌は行き場所がなくなると、そう信じていた。
 けれど今、すべてをなくして、たったひとりで外の世界に放り出されて、琳はそうじゃないことを知った。
 それは、エンジュがなくならなければ解らないことだった。
 敲惺は何度も、そのことを琳に教えてきていた。けれどエンジュにこだわっていた琳は、聞きながら全てを理解してはいなかった。
 だから、最後まで、高之を自分から切ることができなかったのだ。
 あんなにも、たくさんの、琳を想う言葉をくれていたのに。
 ――すごく愛してる。
 初めてそう告げられた夜のことを思い出す。あの腕の暖かさを、なぜ自分は手ひどく傷つける形で手離してしまったのか。
 ワンマンライブの日から、一ヶ月が経っていた。その間、琳は敲惺に連絡を取らなかった。敲惺からもなにも言ってきていない。本当にもう、ふたりは終わってしまったのかもしれない。
 琳は敲惺が教えてくれたことを、きちんと受け止めるまで、こんなに時間がかかってしまったから。
 琳にとってエンジュは迷える道だった。奥深くまで入り込んで、抜けられなくなって、そうして先へ進めず迷走していた。メジャーデビューにこだわるあまり、一番大切なものを見失っていた。
 今、全部が消えて、振り出しへと戻ってきて、まっさらの状態になって――。
 琳はやっと自分の抱えていた深い澱と向かい合うことができた気がする。すべてを失くした今だから、真っ直ぐに彼の残した言葉が心の芯に響いてくる。
 敲惺は、自分で自分をプロデュースすればいいと言っていた。そうすれば、今までよりいい歌ができると。でも、琳は自分自身のことさえ、よくわかっていない。
 それを彼に教えて欲しいと訊きにいったら、敲惺は教えてくれるだろうか。
 もう、琳のことを好きでなくなっていても、嫌いになっていたとしても構わない。忘れてしまっていたとしても。琳が彼にしてしまった仕打ちを思えば、嫌われていたとしてもしょうがないことなのだから。
 それでも、新しく歌を作るために、彼に会いたい。どうしても、今、彼の言葉が欲しい。
 琳はスマホの電源を落として、ポケットへしまった。ベンチから立ち上がれば、周りを行き交っていた人たちの喧騒が浮かび上がってくる。人ごみに紛れて、琳は空を見上げた。
 クリスマスのせいか、平日なのに郊外へ向かう私鉄の駅にはいつもより人が多い。寒い北風がホームに吹き込んできていても、人々の顔は晴れやかだった。
 傷つけてしまったことと、自分が間違っていたこと。それを認めて、謝って――。
 そうして、なによりあの笑顔がもう一度見たかった。
 駅のホームの、せりだした屋根の間から、重くたれこめた曇り空が見える。
 もしかして、今夜は雪になるかもしれない。雲はそんな色をしていた。ずっと外にいたせいで、頬も鼻も子供のように赤くなってしまっている。きっと、泣きそうになっていたせいもあるだろう。
 電車の到着を知らせるアナウンスが聞こえてくる。
 琳は一歩をふみだして、構内に入りこむ電車を遠くに眺めた。近づく列車がブレーキをかける音が響き渡ってくる。
 喋り続けるアナウンスは、海老名方面への案内をくり返していた。



                   目次     前頁へ<  >次頁へ