エンジェルを抱きしめる 最終話


 ◇Ⅵ◇


 その日は朝から底冷えがしていた。
 敲惺は、早朝からクリスマスの準備のために、車に乗って買出しに出たり、母親の店の飾りつけ、料理の仕込みなどを手伝っていた。昨日のクリスマスイブから、目が回るほどの忙しさだった。
 夜になれば店にでて、バーテンダーの真似事をさせられた。朝まで大騒ぎの馴染み客につき合ったせいで、今日は朝からあくびがとまらない。早く自分の部屋にもどって眠りたかったが、今夜の準備も控えている。明日の朝まではゆっくり寝られそうもなかった。
「敲惺、酒屋さんが来てくれるから、空のビールケースを倉庫から裏口に出しておいて」
 母親に言いつけられて、グラスを磨いていた敲惺は手を止めた。
「わかったよ」
 店の中は暖かかったから、素足のままだ。それにサンダルをひっかけて、敲惺は店の裏手に出た。
 倉庫からビールケースを運んでいたら、そこにいつもの酒屋のトラックがやってきた。荷物を降ろすのと手伝っていたら、空からちらほらと白いものが舞ってくる。
「あ。雪ですね」
 灰色の曇り空を見上げながら、若い酒屋の店員が嬉しそうに言った。
「ホワイトクリスマスだ」
「積もればだけど」
 けど、積もると困るんだけどなあ、とぼやきながら、トラックは帰っていく。ひとりのこされた敲惺はビール瓶の詰まった重いケースに手をかけた。
 ふと、通りに目をやる。何気なく、駅から続く歩道を見つめた。
 敲惺の家は、店舗も兼ねているが駅からは随分と離れている。周囲に商店は多いが、それほどひらけているわけでもない。人通りもまばらなその通りに、平日の今日は通行人も数える程度だ。
 ビールケースを持ち上げて、倉庫のほうへ引き返そうとしたそのときに、遠く離れた場所を歩く、小さな人影をみつけた。
 それに、瞳が釘付けになる。
 見知った、以前はよく人ごみの中に探していた姿が、通りに頭を巡らせながら、迷子の子供のように不安げにこちらに近づいてきていた。
 敲惺は自分の見ているものが信じられないというように、目を瞬かせながらその小柄な青年をじっと見守った。相手は一軒一軒、周囲の建物を確認するように見上げて、それから手にしたスマホでまた何かを確認している。
 たまらず、大きな声をあげていた。
「琳」
 その呼びかけに、弾かれたように相手が顔をあげた。
 敲惺の姿を認めて、その場で固まったようになる。遠くから大きな瞳をなんども瞬かせて、驚いたような、それでいてちょっとだけ悲しげな表情をむけてきた。怯えたようにその場に立ち竦んで、こちらの様子を窺ってくる。
 手にしていたビールケースを道路に降ろすと、敲惺はしゃがんだまま、両手を大きく広げた。
「琳」
 もういちど、相手の名をよぶ。それに、琳の小さな身体がぐらりと傾いだ。
 瞬間、倒れるんじゃないかと危ぶんだ。琳は前にのめった勢いで走り出すと、こちらにむけて一直線に駆けてくる。敲惺は思わず笑顔がこぼれた。
「――敲惺っ」
 飛び込んできた軽い身体を受けとめて、強く抱きしめる。
 そのまま立ち上がるとぐるりと華奢な身体をまわした。琳の足が地面から浮き上がる。首に縋りついた琳を持ち上げて立て抱きにすると、久しぶりの重さに嬉しさがとまらなくなった。
「クリスマスプレゼントが自分からやってきた」
 細い髪にキスをする。琳は敲惺の首筋に顔を隠すようにして埋めた。
「敲惺っ、敲惺――」
「うん」
「――ご、ごめん。ごめんっ。お、おれ、敲惺に謝りたくて。それで、どうしても、ちゃんと謝って、きちんと許してもらいたくって――」
「琳」
「――会いにこようと、ちゃんと謝って、それで、――許してくれなくても、けど、思ってることは言わないといけないと思って――」
「うん」
「おれが悪かった。ぜんぜん、色んなこと、わかってなくて。だから全部、あんな事になって、それで、こんなに謝りにくるのが遅くなって――。今までも、なんども、何回も、敲惺のこと困らせてしまって……」
「うん」
「敲惺のせいじゃないのに、当たって、ひどいこと言って、もう会いたくないとか言って、でも、敲惺は悪くなかった。おれ、ずっと、言われたこと考えてて……」
「うん、わかった」
 まだ首にくっつけたままの顔を、頬をよせて離させる。
 真っ赤になった目元から、じんわりと熱が伝わってきた。それになんともいえなく切なくさせられる。
「もういいよ。琳の言いたいことはわかってるから」
「謝んなきゃ……ちゃんと」
「俺だって、琳には謝らないと。琳のこと傷つけたから」
 琳は震えるように、首を振った。
「悪くない。敲惺はなんにも悪くなんかなかった。ただ、おれのこと、考えてくれてただけだった。なのに、そのことをちゃんとわかってなかった。一ヶ月かけてやっとわかったんだ。一番大事なものがなんなのか。それがなかったら、メジャーを目指しても、きっと意味がないって。敲惺はずっとそれを教えようとしてたのに。おれがそれをわかるまで……こんなにかかって……」
 涙を浮かべた表情に、離れていたあいだの琳の憂苦が見て取れた。
「敲惺が、おれが強くなるのを待つって、言ってくれてたってこと。それが一番大事だったんだって」
「……うん」
「もう会いたくないなんて、ひどいこといって……本当に、ごめん……」
「もういいよ。会いにきてくれたんだったら。それで」
 こらえるように引き結ばれた唇に、いますぐにでもキスしたい。
「十分だよ」
「……本当は、……すごく会いたかった」
「俺もだよ」
 寒さでかじかんだ頬にだけ、そっと唇で触れた。琳は目をとじてそれを受けとった。長いまつげが小さく上下する。たまらず、そこにもキスをした。
 ふたり、歩道で身を寄せ合っていると、背後でドアのひらく軋んだ音がした。
「あらま」
 女の人の、驚いた声がする。振り向くと、敲惺の祖母がそこに立っていた。
「ばあちゃん」
「敲惺、そんなところでなにしてんの」
 白髪交じりで日本人離れをした顔つきの、カラフルなショールをまとった祖母が、敲惺と琳をみて目を丸くする。
「恋人が会いにきてくれたんだよ」
 その言葉に、琳がびっくりして身を離そうとした。それを逃げないように支えて、祖母に笑いかける。
「あら、そうなの。そりゃよかったわね。ここんとこ、ふられたっていって落ち込んでたからねえ。クリスマスに間にあってよかったけど、そこじゃ寒いじゃないの。中に入ってもらいなさい」
 祖母は琳をみても別に不思議には思わなかったようだった。可愛いけれど、しっかり男の子なのに。
 琳は顔を真っ赤にして、敲惺に抱かれたまま、「こんにちは」とぺこりとお辞儀をした。
「琳、ちょっとまってな。この荷物だけ運んじゃうから。そしたら、俺の部屋にいこう」
 琳を降ろしながらそういうと、うん、と恥ずかしそうに頷く。琳をその場において、敲惺はビールケースを倉庫に運び込んだ。
 雪がさっきから、ちらちらと舞い降りてきている。ケースを運び終わって倉庫の出口から顔を出した敲惺は、歩道で空を見上げる琳の姿に、つと目を惹かれて立ち止まった。
 寒さに我慢できずに祖母は家のなかに戻ったらしい。琳の小さな姿だけがそこにあった。
 大きな目を宙にむけて、琳は降りかかる雪を瞳にうけていた。
 瞬きもせず、どこかに心が飛んでいってしまったかのようにうつろな表情で、落ちてくる雪だけをじっと感じとっている。敲惺は声をかけずに、その場で静かに見守った。
 唇だけが、わずかに動いている。まるで歌うように。
 きっと、今、この瞬間、琳の許には、音楽の天使が降りて来ているんだ。
 新しい旋律と、まだ知らぬ歌詞を伴って。琳のところへとエンジェルがやってきている。敲惺はそれを邪魔しないように、黙って離れたところからしばらくのあいだ眺めていた。
 やがて、琳の視線がふっと揺らめいたかと思ったら、こちらを向いて、敲惺が待っていることに気づいて、照れくさそうに笑った。
「いい歌ができそう?」
 傍らによって、背中に手をあてる。
「……うん」
 琳は俯いて、うれしさをこらえるように口元を引き結んだ。
「敲惺に会えたから」
「?」
「敲惺に、また会えたから、今度は、いままでと違う曲ができそうな気がする」
「Uh-huh」
 身を屈めて、顔をのぞき込もうとしたら、消え入りそうなささやきがもらされた。
「……でも、おれひとりじゃ、きっと完成させられない」
「どうして?」
「ひとりで、自分のためになんて、歌、作ったことないから」
 敲惺は、一ヶ月前に琳と別れた日に、自分が言ったことを思い出した。
 あのとき、琳には『自分のために歌を作るべきだ』とアドバイスした。きっと琳は、そのことをずっと考えていたんだろう。
 エンジュのワンマンライブが中止となったあの日から、敲惺は毎日、琳のことだけを考え続けていた。
 今どうしているんだろうとか、曲は作っているんだろうかとか。ひとりになってしまってどれだけ傷ついているんだろうかと、ずっと気を病んでいた。
 支えだったバンドを奪ってしまったのは自分だ。だから琳のこれからのことが心配でたまらなかった。
 琳が再び自分に会いにきてくれて、そうして曲をつくる手助けをして欲しいと言われて、やっと敲惺は少し安心できた。琳の中の創作への情熱は消えていない。そのことが嬉しかった。
「だから、敲惺が、手伝ってくれないと……」
 断られることを心配しているのか、ひどく心許ない声で、琳は頼んでくる。敲惺が琳のためにしてやらないことなんてないのに。
「どんな歌つくるの?」
 優しく尋ねれば、安心したかのように、ほっと息をつく。
「ラブソング」
「え……」
「ふたりのうた」
 それだけ言うと、琳は敲惺の腕をぎゅっと握ってきた。自分よりすこし小さくて、けれど敲惺にはない力をたくさん秘めている暖かな手で。
「……うん」
 琳の背にあてた手のひらを、腰にまわして自分にひきよせた。雪がひとひら、ふたりのあいだに落ちてゆるく溶けていく。
「わかった。部屋にいこう。ここ寒い。それに、琳の新しい歌、聴きたいから」
 琳がきらめく瞳を上げてきた。安堵にほころぶ笑顔は誰よりも魅力的だ。
 雪が舞うクリスマスに、ふたりの記念となる曲が生まれる。琳の作る、新しい歌。そうしてそれは、琳と自分のあいだにずっと残るだろう。
 敲惺はもういちど、柔らかなキスを琳の唇に落とした。
 これからもずっと、琳の許にエンジェルが訪れるようにと。
 いつまでも、この大切な宝物が自分の傍にいるようにと。願いを込めて。
 リン、リンリンと歌うように名を呼べば、ちょっと泣きそうな、はにかんだ笑い顔で、琳はつよく敲惺の腕をつかんできた。



                              ――終――



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