エンジェルを抱きしめる 番外編 01


 この話は 『エンジェルを抱きしめる』の後日談となっています。
本編のネタバレが含まれますのでご注意ください。
途中、性描写有ります。



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 ミキシングルームの扉をそっとあけると、中には大久保とエンジニア、そして琳がいた。
 仕事が一段落したところらしく、三人で和やかに談笑している。敲惺はにっこり笑いかけながら部屋の中に入った。
「よう、敲惺。そっちの仕事は終わったのか」
 かけていた椅子をくるりと回して、大久保が声をかけてくる。
「はい。さっき。今日は打ち合わせだけだったんで」
 琳が腰かけている横まで近よっていく。琳とエンジニアはミキシングコンソールの前に座っていた。
「じゃあ、こっちも今日はもう終わりにするか。腹減ったしな」
 大久保がエンジニアに声をかける。
「はい。じゃあ、残りは俺の方で、もう少しいじってみます」
「まかせたよ。明日、また続きをしよう」
 三人がそれぞれ楽譜やメモを片付けて、ファイルへとしまった。
「なら、お先に失礼します」
 エンジニアが皆に挨拶をして、先に部屋を出て行く。
「お疲れ様でした」
 敲惺も、琳と大久保と一緒に後姿に声をかけた。
 エリシオン・ミュージックの大久保のもとで、琳は今、アシスタントのような仕事を時折アルバイトでしている。他にもアルバイトしながら、ネットで自曲を披露したりもしている。
 en-jewelの解散から一年が経過していた。
 敲惺の方は、とある女性シンガーのバックバンドで助っ人のような仕事を請け負っている。使っていたドラマーが事故をおこして入院中のための、短期契約だった。
「上にいって、昼メシでも食うか。敲惺、おまえも食ってけよ」
 大久保が立ち上がって伸びをする。琳もショルダーバッグに荷物を詰め込んだ。
「はい。ありがとうございます」
「俺は午後からも、ここで仕事が入ってるから、出前だけどな」
「出前でも、なんでもいいです」
 そう答えると、大久保は苦笑して見上げてきた。
「なんでも食うからそんなにでかくなるんだよ。琳にすこしわけてやれよ」
 隣で、小さな恋人がくすっと笑う。
 琳は相変わらずちっちゃくて、可愛らしい。反対に敲惺はまた背が伸びた。身長差は二十五センチを越えたかもしれない。
「いっぱい食べさせてるんだけどな。けど、伸びないんだよな、琳は」
「成長期はもう終わっちゃってんだよ。伸びてる敲惺のがおかしいんだよ」
 大きなショルダーバッグを抱えようとしたので、代わりに持ってやる。ありがと、とお礼を言われた。
「牛乳のませろ、牛乳。もう遅いかもしれんけど」
 ドアに手をかけて大久保が言ってくる。
 身体をかがめて、琳の耳元にコソッと囁いてやった。
「飲んでんだけどなあ、ミルクは」
 意味深に笑いかけると、琳は顔を真っ赤にしてパンチを入れてきた。
「何いってんだよ、敲惺のばか。こんなところで。大久保さんに聞こえてるだろ」
「はいはい、聞こえてる、聞こえてる」
 琳との仲を知っている大久保は、気にせず茶々を入れてくる。琳の頬はさらに赤くなった。そういえば大久保もそっちもイケるはずだった。だからふたりの関係にも大らかなのだろう。
 怒って尖らせた唇にキスしてやりたくなったが、三人とも廊下にでたので、敲惺は背筋をのばして、何事もなかったような顔をした。
 すました表情で、ちらりと目線を下げれば、琳は恨めしそうに見上げている。膨れた赤い頬がやっぱり可愛いかった。
 エリシオン・ミュージック社スタジオの二階フロアにある会議室兼談話室で、三人で昼食をとることにする。
「ラーメン食いてえな、ラーメン。ふたりともそれでいい?」
 メニューを数冊、手にして大久保が尋ねてくる。
「はい、おれも食べたいです」
 琳がそれに答えた。
「俺、ラーメンなら、外でハンバーガーも買ってこよ。琳も食べる?」
「おまえ、ラーメンにハンバーガーも食うのかよ」
 大久保が呆れて言ってくる。
「ラーメン食べると、ハンバーガーも食いたくなるんですよ」
 ひええ、若いなあと、感心する大久保を横目に、琳に「どする?」と確認した。
「おれ、そんなに食えない。敲惺だけ買ってきなよ」
「わかった」
 にっこり笑いかければ、大久保に「おまえらホントに仲いいよな」と茶化された。
 スタジオの外に出て、近くのハンバーガーショップに入る。自分のためのダブルチーズバーガーとポテトとコーラのセット、それから琳にチョコレートパイをひとつ。琳はここのパイが好きだった。帰り道、自販機でふたりにお茶のペットボトルを買ってからフロアに戻る。
 部屋に入ると、なぜか、ふたりの顔がすこし強張っていた。
「……どしたの?」
 琳の横に腰かけながら訊いてみる。前に座った大久保が渋い顔で、敲惺に質してきた。
「敲惺、おまえさ、あの話、琳にしてなかったのかよ」
「え?」
 あの話? と大久保に問いかける。
「だから、あの話だよ。あのハナシ。おまえんとこに来てるっていう、アメリカからの仕事の話」
「……ああ、あれですか」
 隣の琳は俯いている。テーブルを見つめる不安そうな表情に、敲惺は戸惑った。
「あの話は断ろうかと思ってるんですよ。色々と条件に合わないんで。だから、琳にも話してなかったんです」
「ええ? もったいないだろ。どうせ、もうすぐ今の仕事も契約切れるし。いい話じゃないのか」
 数日前、敲惺はアメリカにいる知り合いから連絡を受けていた。祖父の頃から付き合いのあるバンドのマネージャーで、ドラマーとして敲惺を雇いたいという申し出だった。ツアーを企画していて、その間のメンバーとして参加して欲しいというものだったが、敲惺は考えさせて下さいと答えていた。 
  ペットボトルをふたりの前において、ハンバーガーを取り出す。
「けど、話をきいたらアルバム製作から参加して、ツアーはアメリカを横断して、ヨーロッパにも数ヶ所行くってことだから。その話を受けたらたぶん、二年は拘束される。そんなにも琳と離れてられないですよ」
 それに、琳が顔をあげてきた。ちょっと責めるような眼差しをされる。敲惺はなぜそんな目をされるのかわからなかった。
「仕事より、琳が大切か」
「もちろんです」
「向こうじゃそれなりに売れてるバンドじゃないか。メンバーはおっさんばかりだけど、売り出し中のおまえにゃ大きなチャンスになるだろう。ドラマーとしての実力を買っての依頼だろうに」
 敲惺は肩を竦めてみせただけだった。注文していたラーメンが出前されてきたので、そこで話は中断される。
「琳、これ、デザートだよ」
 チョコレートパイを差し出す。
「あ……うん。ありがと」
 それでも琳の様子はおかしかった。敲惺はどうして琳が不機嫌なのか、理解できなかった。琳のためにアメリカでの仕事を断ったのに。
 好きな人を一番に優先させるのは、敲惺の中では当たり前のことだった。



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