エンジェルを抱きしめる 番外編 02


 断ったことがわかれば、琳は喜ぶとばかり思っていたのに、落ち込んだ様子に自分は何か間違ったことをしてしまったのかと首をひねる。
 アメリカ人ならこういうときは、「ボクを一番に愛してくれてるんだね。嬉しい!」とばかりに抱きついてくるだろう。
 昼食が済んで、大久保に礼を言って、ふたりでスタジオを後にした。街にでて、買い物をしてから琳の部屋に向かう。
 琳は以前と変わらず、1LDKの広い部屋に住んでいた。一度、引っ越しの話が出たのだが、そのころには敲惺がほぼ同棲状態で毎日のように泊まりにきていたので、結局そのまま、そこに住み続けているのだった。
 楽器屋や本屋など寄り道していたら遅くなったので、外で夕食も済ませて、マンションに戻る。そのあいだ、琳はずっと元気がなかった。
 どうしたのかなと思い、色々と話しかけてみれば、明るく返事はしてくれるけど、なんだか取り繕っている感じもする。
 日本人はいつもそうだ。というか、琳がそういう性格なのかもしれない。自分の中に心配事や問題を溜め込んで、言いたいことがあっても、はっきり外に出さない。ふたりの間に行き違いを作らないようにするためにも、思ったことは全部、言葉にして吐き出してしまわないといけないのに。
 もやもやしたまま、敲惺は琳の部屋へと入った。
 部屋はいつも片付いている。琳が割りときれい好きだからだ。けれど、パソコンとキーボードが置かれたまわりだけは、本やメモが散らかっている。
 琳は毎晩、ひとりでそこで作業をしているのだった。
 肩にかけていたディバッグをソファに下ろして、敲惺はふと、今朝、バッグの中に入れておいた物のことを思い出した。それをすぐに、ファスナーを開けて取り出す。
「琳」
 キッチンで手を洗っている琳に声をかけた。
「なに?」
「いいものがあるんだよ。こっち来てみて」
 なになに? といいものにつられて琳がやってくる。
「はい。これ、ふたりで使おうよ」
 ピンクの包装紙に包まれた、手のひらに収まるプレゼントを琳に渡す。
「なにこれ?」
 受けとった琳が、不思議そうな顔をした。
「うちのお店のお客さんが、くれたんだよ。それをこっそり持ってきた。あけてみなよ」
「お店にもらったもの?」
 がさごそと包装をほどけば、中からセロファンにくるまれた、オレンジ色の砂糖菓子のようなボールが出てくる。
「うわ、なにこれ。おいしそう」
「お菓子じゃないよ。バスソルト。風呂に使うんだよ」
 へえ、と眺め回し、匂いをくんくんと嗅ぐ。リスみたいで可愛らしかった。
「においも甘いよ?」
「たべちゃダメだよ」
 説明書きを読んで、入浴剤だと納得する。
「な、これ入れてさ、一緒にはいろうよ、風呂」
「うん」
「琳、明日は仕事、午後からだろ? 俺はオフだからさ。今夜はふたりきりでゆっくり過ごそう」
「……ん」
 風呂のあとも含めて、というように誘いかけると、嬉しそうな、けれどちょっと恥ずかしそうな表情になった。
 これで琳をリラックスさせて話をすれば、知りたいことも訊き出せるかもしれない。琳の心の中にあるものは全部ちゃんと知ておきたい。理解しあうには、コミュニケーションが必要だ。言葉や、それ以外の方法でもって。
 敲惺は自分からバスにいって、湯船にお湯を張った。
 バスソルトを湯の中に落とせば、ゆっくりと溶けてオレンジの乳白色に染まり、小花のような飾りがいくつも浮いてくる。
「うわ。すげーな。こんなの見たことないよ。ジュースみたいになってる」
 琳が横で見物しながら、子供のように喜んだ。 
「早く入ろうぜ」
 ふたりして、プールに向かう小学生のように急いで服を脱ぎ去った。かけ湯もそこそこに、中に飛び込む。ひとしきりはしゃいで、普段とちがう風呂を堪能してから、琳は敲惺に後ろから抱きかかえられた。敲惺が日課のマッサージをするのを、いつものように眺める。
 だいぶのぼせてきているらしく、琳の頬は桃のように色づいてきていた。胸に手をまわせば、ゆったりと敲惺の胸元に頭を預けてくる。
 小花を摘んで指でこすると、溶けて湯の中へと消えていく。琳はそれをとろりとした瞳で見つめた。
「敲惺」
「ん?」
 もうひとつ、オレンジ色の花を指先で捕らえようとする。けれどそれは、つかむ寸前に流され逃げていった。
「あのさ」
「うん」
 言葉を待って、琳の濡れた髪に唇をあてる。オレンジの甘い匂いがした。
 琳はいつも、話し出すのに時間がかかる。言葉をさがしているあいだ、しばし沈黙が訪れる。
 きっと言いたいことを頭の中で整理しているのだろう。けれど、慎重に単語を選ぼうとする時ほど、ふたりの関係を傷つけないように、気づかっている場合が多い。
「なに?」
 敲惺のほうから、穏やかに促してみた。
「さっきの、大久保さんから聞いた話なんだけど……」
「うん」
 やっぱりそのことか、と思いながら頷く。琳の調子が変わったのは、あの話を聞いてからだ。
「受けなよ。あれ、いいチャンスじゃんか」
 思いがけないことを言われて、敲惺は驚いた。
「え? なんで? あれを受けたら、少なくとも二年は離れて暮らさなきゃいけなくなるんだよ」
 二年も離れて生活することに、琳は何とも思わないんだろうか。
「でも、海外でツアーに参加で、しかも、敲惺を見込んで、依頼してきたんだろ。だったら、飛躍する大きなチャンスになるじゃんか。敲惺はこれからもずっと、ドラマーとしてやっていきたいんだろ。なら、そのラッキーな機会を逃すなよ」
「仕事は日本でも探せるよ。それに、俺はどんないい機会だって、琳と離れて暮らすのはいやだ」
 愛する人との生活が一番大事で、仕事はその次。それは当たり前のことだ。アメリカ暮らしをしている間、敲惺のまわりの人たちは皆そうしていた。 
「でも、おれのせいで、おれがいるからって、敲惺のチャンスを潰すのはイヤだ」
 けれど日本人は、いつも仕事を優先させる。
「琳は俺と離れて暮らすことになっても平気なのかよ?」
 琳と遠距離恋愛なんて、ぜったいに考えられない。
「そんなわけないじゃん」
 琳は振り返った。大きな目が潤んでいた。
「そんなわけないだろ。平気なわけない。でも、おれは敲惺の足手まといになるのはイヤなんだ。おれに気にせず、敲惺はやりたい仕事をやるべきだろ」
「……」
「おれ基準で仕事を選んで欲しくない」
 仕事を断ったことを、琳は喜ぶとばかり思っていたのに。



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