エンジェルを抱きしめる 番外編 03(R18)


 リビングに散らばった楽譜やメモのことが、ふと脳裏に浮かんだ。
 琳はいつも、あそこで夜遅くまでキーボードに向かっている。
 エンジュが解散して一年。敲惺には仕事がきている。祖父の知人のつてをたどって米国での仕事を得たり、日本では大久保の紹介もあって、わりと順調にここまできていた。
 けれど、琳はそうじゃなかった。
 大久保のところでアシスタントとして働きはじめたのは三ヶ月前から。それまでは、音楽とは関係のないアルバイトだけをしてきた。曲を作っては大久保にみてもらい、ウェブサイトで発表したり。バンドに誘われたこともあったけど、うまくいかなかった。エンジュの解散時の評判が悪すぎたのだ。
 敲惺はその姿をずっと見てきていた。
 琳には才能がある。いつかは次の、大きなステップへと飛躍することができると信じている。
 今はまだ、その才能の芽は眠ったままでいるのだけれど。
 いくつもの曲を作り、自分をはげまして、冬の寒さに耐える新芽のように、琳は春の来る日を待っている。決して、泣き言を言ったり、愚痴をこぼしたりはしないけれど、置かれた状況が自分よりは厳しいものだということを、敲惺はちゃんと理解している。
 ここのところ、琳の作る曲にもそれが表れていて、覇気がなくなって哀しい楽曲が多くなっていた。曲数も減っている。きっと袋小路にはまっているのだろう。
 琳の才能を駄目にしたくない。だからこそ、今は傍にいてやりたいのだった。
「離れていても、敲惺が活躍する姿を見ていられたら、おれはそのほうが嬉しいよ」
「寂しくない?」
 琳が身体をひねって前を向く。湯船に、ゆっくりと身を沈めた。
「寂しさは歌に変える。ぜんぶ糧にするよ」
 両手で小花をすくい、じっと見つめる。
「そしたら、きっと、いい歌ができる」
 感情のエッジをみがいて、それで心を切り裂く。痛みに血を流しながら手を突っ込んで、奥底にあるものを探しだす。眠れる真珠や、まだ光知らぬ宝石。それは、琳自身にしか取り出すことはできない。敲惺には手を出すことのできない領域なのだ。
 けれど、それじゃあ自分をすり減らすだけになる。昔の、敲惺と出会う前の琳と同じになってしまう。そんな風に、大切な恋人に創作をして欲しくはなかった。琳にはもっと、明るくて躍動感のある曲がよく似合う。
 琳を支える小さなエンジェルは、今どこにいるんだろう。
 敲惺は腕に力をこめて、細い肩を抱きよせた。
「寂しいだけで、いい歌ができるとは思えないよ」
 髪に頬をすりよせる。
「俺は琳を、光射す場所に連れて行ってやりたいんだ。そのための手伝いをしたい」
 くすん、と鼻を鳴らす音が聞こえてきた。それから、ふっと息を継いだような笑い声。
「今でも十分、助けになってくれてるよ。十分すぎるくらい。……だから、おれのためって言うのなら、アメリカに行って欲しいな」
 手のひらから流れ落ちる小さな花を、ふたりで眺めた。
「敲惺の活躍するところが見たいよ。それが、おれにとっても光射す場所になるんだからさ」
 琳の望みなら、なんだって聞いてやりたいけれど、こればっかりは簡単にうんと頷くことはできない。仕方なく、敲惺は話を先送りすることにした。
 琳ものぼせてきているようだ。こめかみから汗が流れ落ちている。
「……この話は、また後にしよう。もう出ないと、琳がふやけて溶けそうだ」
 後ろから、耳元にキスをしてふたりで立ち上がった。
 互いに頭と身体を洗いあってから、敲惺が先にバスタブを出た。バスタオルで身体を拭いて、腰に巻くと、もう一枚、新しいバスタオルを取り出して琳をくるむ。
 ふたりでドライヤーをあて合って、洗面所を出る頃には、琳の上気した頬もいつもの色に戻っていた。
「先にベッドに行ってなよ。俺、コーラもってくからさ」
「ん」
 マントのようにバスタオルを肩にかけた琳が寝室へと向かうのを眺める。腰から下の、少年らしさの残ったラインが露わになっていた。自分とは違う、華奢な流線型が敲惺は好きだった。
 キッチンに行って、冷蔵庫からコーラとミネラルウォーターのペットボトルを取り出し、それを手に寝室に入る。
 ベッドの上で、琳はシーツにうつぶせていた。冷たいのが気持ちいのか、はふ、と満足げに息をついている。横に腰をおろして、ボトルを差し出した。
「ありがとう」
 寝転んだまま、肘をついて、琳は水を少し飲んだ。敲惺もコーラを飲んでから、琳の背中にかかっていたタオルを取り去った。
 まだバスソルトの香りが残っていて、ふわりといい匂いが漂う。鼻をくすぐる芳香に、誘われるようにして背中にキスを落とした。
 音をたてながら、背骨に沿って唇をあてる。琳が肩ごしに、それを見てきた。
 瞳が微笑んでいる。敲惺の口元も同じように笑みを返した。伸び上がって、唇にもキスをする。かるい口づけでリラックスさせてから、首元に顔を埋めてくすぐった。
「……ん」
 マッサージするように、身体を優しく撫でてまわれば、琳の息づかいが、少しずつ荒くなってくる。反応をみながら、そっと仰向けにした。
 小さなニプルに舌をあてると、背中がぴくりと跳ねる。ふ、と鼻にかかった声が、敲惺の甘い欲を刺激した。皮膚のいたるところに唇を這わせていると、琳がゆるやかに身をよじる。
 両手をあげて、それからシーツに手足を委ねた。泳ぐようなしぐさが、無垢で、なのにとても官能的だった。
「琳」
 名を呼べば、優しげに見つめ返される。眼差しは愛情にあふれ煌いている。けれど、どこか寂しげだった。心配事を押し隠して、無理に微笑んでいるようにみえた。
 なにかに怯えて、けれど、気付かれないように隠してる。
 それがなにか、敲惺にはちゃんとわかってた。ふたりの間を裂くものに、琳は怯えている。
 琳だってきっと、自分と離れたくないはずだ。一緒にいたいと望んでいる。なのになんで、わざわざ困難な道を選ぼうとするんだろう。行かないで、そばにいてくれよ、と言ってくれれば、喜んでそうするのに。 
「琳」
 ささやきながらキスをする。
「俺、どこにも行かないよ」
 琳のまつげが頼りなく震えた。
「ずっと傍にいる」
 琳が首に手をまわして、きつく抱きついてくる。そうしながら、小声でぽつりとこぼした。
「……おれ、敲惺の重荷になるのイヤなんだ」
 喉奥から発せられた言葉は、痛みをこらえるようなものだった。それが耳元を熱くする。宥めるつもりでいった言葉なのに、余計に琳を追い込んでしまったらしい。
「アメリカに行って。おれのためだっていうのなら」
 琳から、敲惺の頬に口づけてくる。すこしだけ笑うようにして言った。
「敲惺のドラムプレイを、おれがどれだけ好きかって、わかってないだろ」
 ひたいを、敲惺のこめかみにこすりつけてきた。
 こっちが宥められているようだった。
「いつも、最高の場所で、プレイして欲しい。そうしてそれを、おれに見せて欲しい」
 消え入りそうな掠れ声で続ける。
「それが、おれにとっての一番なんだ……」 
 言葉が出なかった。 
 琳にとっての一番は自分で、だから、誰よりも成功を願っている。足かせになるのが琳自身だったら、それさえも許していない。琳の気持ちは痛いほどよくわかった。
 感情とうらはらの言葉を紡ぐ口を、乱暴にキスでふさぐ。
 舌を差し入れて、正直になってほしくて、きつくからめて責めたてた。



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