彩風に、たかく翼ひろげて 16


「嫌です」
「なに?」
「嫌です。白城の家を出たくはないです」
 この人のそばにいて働きたい。
「だったら仇討ちには連れてかねえ。屋敷でひとりでくさってろ」
「嫌だ」
 捨てられるようで、必死にそれも拒否した。
「おめえ、誰に口きいてやがる」
 反抗的な態度に迅鷹が声を荒げる。それでも隼珠は、両手を握りしめて続けた。
「俺に、死に場所をください」
 迅鷹が眉根をよせた。端正な顔にゆがみが走る。
「あなたのために死にたい」
 ――そうだ。自分は、そうしたいんだ。
 言葉にすれば望みが明らかになる。心の奥底に抱えている鬱屈は、孤独が生み出した薄暗い希望だった。
 自分は人生のすべてを捧げる相手を、求めている。
 もうひとりは嫌だ。森の中で雨に打たれて泣きながら眠るのも、いない人の名を呼んで淋しさに押しつぶされそうになるのも沢山だ。それぐらいなら、誰かのために命を差しだして尽くしたい。
 そうして、自分という存在を認めて欲しい。
 愛してほしい。
 思いが胸の奥から噴きだして、心をかきまぜた。わきあがる感情に、自分自身が飲まれてしまいそうだった。
「俺を使ってください。どんな仕事でもいい。やれることをしますから。鷹さんの仇討ちの手伝いをさせてください。そうして兄ちゃんの仇も討たせてください」
 隼珠の未来は、蛇定を斬るところで終わっている。その先は漆黒の闇――つまり死であった。蛇定を斬れば、自分はきっと赤尾の連中に殺される。逃げ道はないと覚悟している。だからこそ生きている内は誰かに必要とされたかった。
 そうして、兄が死んでから誰からも得ることのできなかった情愛というものを、一度でいいから知りたかった。
 自分は傷だらけで飢えている野良犬のようだと思った。餌をくれる飼い主を渇望している。
「お願えします」
 唇が震えた。博徒の親分に対して、どんな生意気な口をきいているのかも忘れていた。
 殴られても蹴られても構わない。けれど、しがみついてでも迅鷹から離れたくなかった。
 この人だけが自分に人間らしい価値を与えてくれたから。寝場所と餌と仕事をくれて、役に立つと褒めてくれたから。
 涙が目から落ちていく。流れた雫は、ぼとぼとと草履の足に染みを作っていった。
 迅鷹はじっと隼珠を見返してきた。その顔には、怒りのような、けれど、もっと違うものがあった。憐みのような、痛みのような――いや、そうではなくもっと違う感情が、迅鷹の心を打ちつけている、そんな気がした。
 迅鷹は何も言わない。亮も息をひそめていた。
 やがて静寂の中で、一際大きなため息がもらされた。
「……仇討ちの喧嘩には連れていけ、堅気には戻りたくはねえ、商売もしたくねえ。わがまま放題言いやがる」
 なあ、亮、と背後にいた男に話を振る。亮も答えようがないようだった。
「てめえの言い分を全部聞いてたら、どっちが親分かわからなくなっちまわ」
「……」
 迅鷹の草履が土を踏む。くるりと背を向けると、先を歩きだした。
「隼珠」
静かな、けれどピンと張った声で呼ばれる。
「お前の言い分はよくわかった。――だがな」
 厳しい口調で釘を刺す。
「白城にいたかったら俺に逆らうな」
 隼珠は濡れた瞳をあげた。
「仇討ちの喧嘩に参加して、堅気に戻るか、喧嘩はあきらめて、白城で使いっ走りを続けるか。どちらか好きなほうを選んどけ」
 迅鷹がこちらを見ずに言う。
「それ以外は聞かん。それからここにももう来るな。わかったな」
 話は終わりだというように、大股で進んでいく。
 亮が気づかうように隼珠を見てきた。
「……親分の、できる限りの譲歩だ。言うことを聞いておいたほうがいい。他の子分には、絶対にこんなことはしないから」
 こっそり小声で言う。隼珠は後姿を見つつ、仕方なくうなずいた。
 とぼとぼと後をついて歩きながら、迅鷹の機嫌をそこねてしまったから今日こそは部屋を追い出されるだろうと落ちこむ。
 けれど、その夜も隼珠はいつものように布団に呼ばれた。
 迅鷹は按摩をした後、隼珠を抱きこんでなぜか深くため息をついた。隼珠を包む手は、いつもより強かった。
 迅鷹の吐息が、隼珠の前髪をゆらす。そして隼珠の息は、迅鷹の胸を温めている。密接した距離で、迅鷹は話しかけてきた。 
「お前は、死に場所が欲しいと、さっき俺に言ったな」
 隼珠はハッカ薬の治療で熱くなった身体を少しもてあましながら「へい」と答えた。
「死ぬのは怖くねえのか」
 低く艶のある声音が、迅鷹の喉仏を振わせる。ほの暗く光るランプに、尖った骨が小さく上下した。
「怖くねえです」
 言いながら、それは嘘だと心の中で呟いた。怖くないはずがない。恐ろしいに決まっている。
 自分が死ぬときは多分、誰かに斬られてだろうと予想している。きっと喧嘩で命を落とす。
 八年前に背中を斬られ、生死の境をさまよった経験から、隼珠は刀で死ぬのがどれほどつらいのかよく知っている。
 冷たい鋼が肉を割き、皮下に入る感触。一拍おくれてやってくる稲妻のような痛み。そうして、そのあとの終わりなき煉獄。
 けれど兄の清市はもっとつらかったのだ。隼珠は一太刀だったが、清市は十数か所を斬られていた。想像を絶する苦しみだったろう。だから兄を弔う意味で、隼珠は同じように死ぬことを望むのだ。
 ――兄ちゃんだけを痛い目にはあわせない。俺も一緒に、苦しんでから会いにいく。
 清市の墓は近くの寺に、石を積んだだけのものがおかれている。隼珠は命日にはそこへ行って花をたむける。他に墓を訪れる者はいない。死の原因を作った芸者も、蛇定を恐れてかあの後すぐに姿を消してしまった。一度も墓に手をあわせには来ていない。
 兄の無念を晴らすことができるのはもう自分しかいないのだ。死が怖いだの、斬られるのが恐ろしいだのといった軟弱な考えは持つまいと決めている。
「そうか、お前は怖くねえのか」
 迅鷹は独り言のように呟いた。それは隼珠の返事に感心しているわけではなく、かといって嘘と見抜いているという風でもなかった。迅鷹の心はもっと、別の場所にあるようだった。
「俺はこええぞ」
 うわの空の様子でささやく。隼珠は布団の中で目を瞬かせた。
 それは博徒の親分らしからぬ台詞だった。
 こんな言葉を子分たちが聞いたらどう思うだろうか。うちの親分は意気地なしだと、がっかりするに違いない。腰ぬけ親分は軽蔑される。
 隼珠がどう答えていいのか分からず困っていると、迅鷹は心の痛みを訴えるかのように呻いた。
「俺は死にたくねえ。殺されて死ぬのなんてまっぴらだ」
「……」
 誰だってそうだ。殺されたくはない。けれど大方の博徒はそれを運命と受け入れている。死は抗えない災難であり、受け取るときは男らしく立ち向かって、晴れ舞台のように散っていこうとする。
「だから、殺される前にやってやる。蛇定には絶対に負けねえ」
「……」
 ぎゅうっと両手に力をこめて、細い身体に縋ってくる。まるで、そうなることを祈るように隼珠を抱きしめてきた。重なった肌から、相手の感情が流れこんでくるようだった。
 鶴伏一の男が自分だけに見せた裏の姿に、隼珠は狼狽した。
 迅鷹はどうして、そんな心の奥底にしまってあるだろう心情を吐露してきたのか。隼珠は子分ではないみそっかすだからつい油断してしまったのか。
 注がれた感情の深さに溺れそうになる。隼珠の心の器はそれほど大きくはない。自分の分だけで精一杯だったのに、迅鷹の分まで入れられてしまって、身体の中では、あふれそうな悲しみや苦しみを集めてとっておくのにおろおろしてしまった。
 迅鷹が隼珠の首筋に自分の顔を埋めてきた。長めの髪が頬をくすぐる。
 この黒髪は、風が吹く場所では鷹の翼のようになびく。勇壮で凛としていて、隼珠はその姿を見るのが好きだった。とても誇らしい気分になれるから。
 なのに今は、まるで雛鳥にもどったかのように弱い心を投げだしている。
 隼珠はそっと相手を抱き返した。強い親鳥にはなれないけれど、できるだけの優しさをこめて。
 ――この人の、ほんの少しでもいいから支えになりたい……。
 そう強く感じる。
 助けになることができたら。力になれたら。
 それはどんなに素晴らしいことだろう。
 今までは、清市の仇討ちだけを考えて生きてきた自分だったけれど、ここにきていつの間にか、隼珠は迅鷹のために生きたいと願うようにもなっていた。



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