彩風に、たかく翼ひろげて 17


◇◇◇


「あん人はな。元々は、こんなことに向いてる人じゃあなかったんや」
 湯船の中で手足を伸ばしていた源吉が、頭に手拭いをのせて言ってくる。
 身体を洗い終わった隼珠は、湯船に足をいれて源吉の横につかった。
「向いている人じゃなかった?」
 道場から戻り、遅い風呂を使っていたら、ほどよく酔っ払った源吉も入ってきた。
 先日、金物屋の息子が赤尾の子分に怪我を負わされた事件を、迅鷹が苦労して収めた話をした後、源吉がぽつりとそうこぼしたのだった。
 薄暗い風呂場には、源吉と隼珠しかいなかった。静かな夜のしじまに、天井から水滴の落ちる音が時折、ぽちゃりと響く。
「そうや。あん人は、わしらとは違って生まれながらの無頼者じゃねえ。努力して博徒になろうとしたお人だったからな」
「努力して……」
 とは、奇妙な言い方だった。
 社会から外れた与太者集団である博徒には、なりたがる者などそうはいない。進んでなろうとするのは、殺しと喧嘩を好む偏執症ぐらいのものだ。皆、普通に幸せに暮らしたいと望んで、けれど生まれの不幸やめぐりあわせの悪さ、運命の非情さに振り回されて、堕ちて堕ちて、ついぞ行くところがなくなってここにたどり着くのだ。
「あん人はなあ、子供のころはそれは優秀なお人だったんや。武芸も秀でていたが、なにより学問ができて、将来も、師範学校への進学を周囲に望まれておったぐらいなんやから」
「……そんなに、すごい人だったんだ」
 源吉の隣で、隼珠も手拭いを頭にのせる。
「ああ。賢くて、腕が立って、責任感の強い坊やった。けどなあ、あん人が十六のときに先代が蛇定に惨殺されて。それで致し方なく、跡を継がなきゃならんくなったんや」
「そんな。他に継ぐ人はいなかったんすか」
 博徒は世襲ではない。が、白城組として自営の仕事をしていたのなら、跡継ぎは必要だったろう。けれど、それでも必ずしも息子である必要はないはずだ。
「白城一家もまだ若かったからな。跡目は育っとらんかった。赤尾が大頭してきて、このままじゃあ白城は赤尾に潰されるだろうと、誰もがそう憂いた」
 立ちのぼる湯気が、あけた窓のちかくで揺れている。ふたりで湯船に並んで、ぼんやりとそれを見あげた。
「そんときに、あん人が、『自分が白城を立て直す』と言い切ったんや。まだ十六の坊が。白城を背負って立つと宣言した」
 源吉の目が昔を思いだすように細められる。その表情は懐しんでいるわけではなく、迅鷹の運命を哀しんでいるかのようだった。
「それからは人が変わったように、あん人は冷酷になった。白城に喧嘩を仕かける者は容赦なく叩きのめして、ときには自分も斬られたり骨を折るほどの大怪我を負いながらも白城を支えた。鶴伏宿で一番の博徒となるために、理不尽な相手にも挑んで、勝つために非情な手段もいとわず闘った。二十歳になるまでには、白城の鷹は、鶴伏でも名の知れた博徒となった」
 そう言うと、源吉は言葉を途切れさせた。
「けど、それもこれも全部、赤尾の蛇定とやりあうためだったんやな。あいつを倒すために、負けないほどに強い自分というものを作りあげっていってたんや」
「……」
 隼珠の知らない迅鷹の過去。思慮深く勉学に優れた子供が、博徒になろうとする決意とは一体どういうものだったのだろう。父親が惨殺されて、子分らが残されて、自分も次に殺されるかもしれないと思いながら逃げもせず、立ち向かう道を選んだ心境は、どれ程の修羅だったのだろうか。
「まあ、今は、色々あって落ち着いて、冷血なだけでない、いい親分に変わってくれたが」
 言いながら源吉は大きくため息をついた。
「そんでも、頼られる親分というもんは、それだけ他人のために働かなきゃならんわけよ。そうでなけりゃあ、信頼も得られん。自分の縄張りを守るためには、身を挺して闘ってこその、大親分ってえもんやからな」
 そこまで言うと、源吉は湯を手ですくって顔を洗った。ううむ、と唸って目をとじる。
「あの親分の肩には、沢山の責任がのっかっとる」
 白い湯気のふわりとのぼって消えゆくさまは、命のはかなさを連想させた。
「それに耐えながら、あん人は足を踏ん張っとるんじゃな。強く見せようと意地を張るのも、あん人の任侠道なんや」
 隼珠は窓の向こうの夜空を見あげた。今日も星が出ている。
 迅鷹の想いと、背負った過去と現実と。
 昨夜の『死ぬのが怖い』と言ったささやきと。
「子供のころからよう知っとるが、昔は優しくて物静かな坊やったな……」
源吉が遠くをのぞむ目をする。
 隼珠も見知らぬ子供の哀しさに触れたような気がして胸が痛んだ。


◇◇◇


 宿所の完成が近づいていた。
 迅鷹は赤尾からの襲撃に備え、見張りをふやし、子分らにも気を引きしめるように言い聞かせた。子分らの中には「やられる前にやっちまいやしょう」と血気さかんに訴える者もあったが、慎重派の亮がそれを押しとどめた。
「白城組の台所事情は、子分らが知る必要はないけれども、かなり赤字がかさんでいます。この工事が成功しないと、白城は財布の内側から崩れていきます」
 亮が迅鷹にこっそり話しているのを、隼珠は聞いてしまったことがある。
 そのときの迅鷹はひどく厳しい表情をしていた。きっと迅鷹も、親分として守りで耐えるのではなく攻めに行きたいのだろう。だが、組がなくなってしまったら元も子もない。迅鷹は決断を先送りにして辛抱を強いられていた。
そして隼珠は、迅鷹がさほど金を所持していないということにも驚いた。自分を三百円の代わりに引き取ったのだから、白城の親分は金には困っていないのだと思っていた。
 手持ちの金がないのなら隼珠を沢口に渡して、落とし前の三百円を受け取ったほうがよかったのに。なのに、売られるのが可哀想だと同情して隼珠を選んだ。義理人情を重んじる親分だとしても、その懐の深さは想像を超えていた。
 仇討ちのときはついていきたい。そうして彼のために働きたい。日に日にその想いが強くなる。ほとんど恋情といってよかった。迅鷹の男気に隼珠は心の底から惚れていた。
「隼珠、今日は三橋町の役所に出かけるから、お前も荷物持ちでついてこい」
「へい」
 朝食を終えて仕事に向かう準備をしていたら、迅鷹に声をかけられた。
「ついでに牛鍋食わしてやる。お前、食ったことあるか?」
「ないです」
「そうか、なら連れてってやる。ありゃあ、うめえぞ」
 隼珠の頭を大きな手でひと撫でしてから帳場に向かう。そこでは、帳簿を手に難しい顔で待つ亮がいた。ふたりは真剣な顔で頁を捲りながら何やら打ち合わせを始めた。
 隼珠が柱の陰で待っていると、やがて話し終わった亮が書類や帳簿を風呂敷に包んで「じゃあ、いきましょうか」と声をかける。
「おう」
 迅鷹は明るく答えた。
「隼珠、いくぞ」
 と呼ばれてそばに駆けていく。すると犬っころを迎えるように笑顔でまた頭を撫でられた。
 迅鷹自身も気分転換が欲しいのかもしれなかった。ここのところずっと現場はピリピリとした空気が流れている。元々博徒は喧嘩が商売みたいなものだ。真面目な土建業より早く喧嘩をしたくてしょうがないのかもしれない。
亮と三人で人力車にのり、一里ほど離れた役所へ出かける。役所はレンガ造りの二階建てだった。お上の建物に入るのが初めての隼珠は、書類の入った風呂敷包みを抱えて、キョロキョロしながら迅鷹の後をついていった。亮は役所前で別れて、近くの取引先へ支払いをしに行った。
 受付で訪いを告げると、しばらくして役人と、外国人の技術者が奥から出てきた。赤鬼のようなその容姿に隼珠は目を丸くした。



                   目次     前頁へ<  >次頁