彩風に、たかく翼ひろげて 18


「隼珠、亮がそのうち戻ってくるから、玄関で待ってろ」
 迅鷹が風呂敷包みを受け取り、役人と共に会議室へと入っていくのを見送る。隼珠を連れて来た目的は牛鍋だったようで、残された隼珠は役所を物珍しく見ながら玄関へ戻った。
 外に出ると亮はまだいなかった。隼珠はひまつぶしに通りをぶらぶら歩きだした。平日の昼間のせいか、人影はさほど多くない。馬車が通ると土埃が舞い、下げ髪にリボンを結んだ袴姿の女学生らしい集団がハンケチを口に行きすぎた。書生風の若い男もいた。自分には関係のない世界の人々をぼんやり眺めながら、隼珠は役所のまわりをぐるりと散歩した。
 通りにはしだれ柳がいくつも植えられている。長くたれさがる黄色い枝を、手で遊びながら歩いて入口まで戻ってくると、ふたりの男とすれ違った。向こうも半纏姿の職人のようだった。枝で隠れているから顔はよく見えない。気にもとめずに通りすぎようとしたら、「おい」と低くドスのきいた声で呼びとめられた。
 立ちどまって、相手に目をやる。男らは隼珠の前後をはさむようにした。
「おめえ、白城の人間だな」
 隼珠の『白城』と染め抜いてある半纏を見て言う。
「……へい」
 男らの半纏には『赤尾』とあった。そういえば、隠し部屋で見た憶えのある顔だった。
「こんな野郎、白城にいたっけなあ」
 ひとりが首をかしげて、ジロジロと隼珠を観察する。すると、もうひとりが言った。
「おいこいつ、もしかして鷹が三百円で買った情夫じゃねえか」
 いやらしい笑い方をしながら、背の低い隼珠を見おろしてくる。
「へええ。こいつか。おい、おめえ、名はなんていう?」
 黙ったままでいたら、頭を小突かれた。
「言えよ」
 仕方なく口をひらく。
「……隼珠」
「ハズか。ああ、確かにそうだ。そんな名前だった気がする」
「こいつが白城の鷹の情夫か。ふぅん」
 ふたりは遊女でも品定めするかのような目を向けてきた。こんなところで赤尾の連中に出会うとは運が悪い。男らは白城組の半纏を見つけて、用もないのに絡んできたらしかった。
 隼珠はどうやってこの場を切り抜けたらいいだろうかと思案した。喧嘩をしても敵うかどうかわからない。下手をしたら巡査がきて騒ぎになってしまう。
 走って逃げる時機をうかがっていたら、役所の入り口から半纏姿の人影が出てきた。
 迅鷹か、と思ったら違って、その痩躯は赤尾の蛇定のものだった。
「なにしてる」
 たずねた蛇定は、折りたたんだ書類らしきものを懐にいれた。どうやら赤尾の連中も手続きか何かで役所を訪れていたらしい。巡りあわせの悪さに隼珠は歯噛みした。
「こいつ、白城の鷹の情夫ですぜ」
 子分のひとりが、蛇定に仕込杖を渡しながら言った。
「なに?」
 蛇定が目をみはる。隼珠に向けた目を忙しなく動かし、興味深そうにした。
「へえ。ならおめえは、七年前のあんときのガキか」
 蛇のようにのっぺりとした顔に、残忍な笑いが走る。それはただ単に殺しそこねた子供を見る眼差しではなかった。蛇定の目は、隼珠を『白城の鷹』の女として見ていた。脳裏には迅鷹と隼珠の痴態が生じている、それがありありと分かる下種な眼差しだった。
 隼珠が蛇定と正面から対峙したのはこれが初めてだ。蝮を思わせる生臭い目つきは吐き気をもよおしたが、負けることなく睨み返した。
 隼珠の勝気な表情に、蛇定が面白そうに笑う。
「なら、本当に、こいつがあんときのガキか確かめてみようじゃねえか。おい、こっちに連れてこい」
 蛇定が子分に命じると、ふたりが隼珠の腕を掴む。そのまま建物の陰に引きずりこまれた。
「離せよっ」
 往来から一歩入った人気のない場所で、蛇定が隼珠の着物に手をかける。
「……やめろっ」
 悲鳴をあげる隼珠にかまわず、襟元を無理矢理はだけさせる。肩から背中があらわになった。
「なるほど、たしかにこりゃあ、俺が斬った痕だ」
 背中の古傷を眺めて笑う。怖気立って、怒りに全身が震えた。
「離せっ」
 身をよじって逃げようとしたが、ふたりがかりで押さえつけられびくともしない。
 反射的に足が動いた。いつも鍛錬しているから、足技は繰りだすことができる。しかし隼珠の足は蛇定に届かず空をきった。そのつま先が、子分のひとりを蹴りあげる。
「ウッ、こいつっ」
 痛みに呻いた男が、腰を引きつつ隼珠の腕をひねりあげた。
「――ああ、うっ」
 関節が外れそうなぐらい腕を後手にねじられる。隼珠の悲鳴に蛇定が笑った。
「活(い)きがいいな。白城の鷹の情夫なら、このままさらって男好きになぶらせるか。そのあとで橋にでも吊るして見世物にしてやろう」
 舌なめずりするその様子に、隼珠は歯ぎしりした。どうにも逃げられない状態に観念したそのとき、離れた場所から大きな声がした。
「おい、てめえら。そこでなにしてやがる」
 顔をあげると、怒りもあらわに迅鷹が駆けよってくるところだった。
「うちの若いモンに手えだしやがって」
 迅鷹の姿を見て、蛇定が杖に仕込まれた刀を抜く。
「白鷹かっ」
 子分のひとりも抜刀した。
 白昼の街中でいきなり刀を抜いた赤尾に、隼珠は驚きと怒りを覚えた。物陰とはいえ大通りには行き交う堅気の人々がいる。騒ぎになれば警察も来るのに。
 こいつらはどこでも自分らのしたいようにする。まさに無頼の博徒そのものだ。
 もうひとりの子分は隼珠を押さえつけていた。しかし、迅鷹は丸腰だった。手には風呂敷包みしかない。
 迅鷹はそれを振り回して、赤尾の集団をなぎはらった。
「亮!」
 自分の子分の名を呼ぶ。けれど、その姿は見あたらない。迅鷹は隼珠を捕まえていた男に拳をふるった。男が隼珠から腕を離す。自由になった隼珠を、迅鷹は自分の腕に抱きかかえた。
「野郎!」
 そこに蛇定が斬りかかった。
 迅鷹は包みを盾にした。バッサリと布が断たれ、中から紙の束があふれだす。それが舞い落ちたあと迅鷹の腕に血が滴った。
「鷹さんっ」
 隼珠が叫んだ。蛇定の剣は布の盾をつらぬいて、迅鷹の腕を斬っていた。
 蛇定が勝ちを見極め笑う。
 ふたりまとめて斬られる――そう思った。
「お前たち、役所の前でなにをしているっ」
 大通りから、怒声が聞こえた。皆が振り向くと、役人らしき男がこちらに向かって大声を張りあげていた。
「おいっ、巡査を呼べ。博徒の喧嘩だっ」
 そばにいた若い男に命令する。言われた若者は、慌てて通りの向こうに走りだした。赤尾の連中はまずいと思ったのだろう、刀を杖にしまうと、何事もなかったような顔をして反対の方角へ足を向けた。
「次は必ず斬るからな」
 憎々しげに捨て台詞を吐いて早足に去っていく。
 残された迅鷹と隼珠は彼らを黙って見送った。悔しかったが巡査が来る前にこちらも引きあげなければならない。隼珠は迅鷹の着物の腕をまくった。
「ひどい……」
 左の二の腕を深く斬られたらしく、血があふれている。
「大丈夫だ、これくらい。隼珠、拾え。逃げるぞ」
 顔をしかめた迅鷹が傷口を袖でおおう。隼珠は手早く散らばった書類をかきあつめた。風呂敷に包みなおしている間に、亮がやってくる。




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