彩風に、たかく翼ひろげて 19


「どうしたんですか」
 驚く亮をうながして、現場を離れた。さいわい警察が来る前だったので追ってくる者はいなかった。
 走る迅鷹の手からぽたぽたと血が流れ落ちる。それを見ていたら、隼珠は胸が苦しくなった。
 迅鷹は自分をかばって怪我をした。自分の不注意のせいで迅鷹を傷つけてしまった。考えるだけで居てもたってもいられなくなる。
 亮が通りにあった商店に入って、店主に診療所の場所をたずねた。近くの医者に駆けこめば、傷の縫合には数時間を要した。
 待合室にいた堅気の人間が怖がる目でこちらを見てくるので、しかたなく迅鷹だけを診療室において隼珠と亮は建物の外で待つことにした。生け垣の横で亮は佇み、隼珠はしゃがんで震える腕をおさえつづけた。
「鷹さん」
「親分」
 処置が終わって、診療所から出てきた迅鷹に、ふたりが走りよると迅鷹は図太く笑った。
「大したことない。少し縫っただけだ」
 赤く染まった着物の袖から、真っ白な繃帯が見えていた。
「亮、お前の半纏を貸せ。俺のは丸めてお前が持っていくんだ」
「わかりました」
 亮が自分の半纏を脱いで渡す。迅鷹はそれを羽織って汚れた着物を隠した。
「蛇定に斬られたことは誰にも言うなよ。子分らが騒ぐと面倒になる」
 人力車を手配して遅い帰宅をする。屋敷に入る前に、迅鷹はふたりにそう口どめをした。そうして、何事もなかったかのように玄関を通っていった。
「隼珠、普通の顔をするんだ」
 亮にたしなめられて、隼珠は青い顔でうなずいた。
迅鷹はいつも通り夕食をすませ、いつものように一番風呂を使った。子分らは誰も異変に気づくことはなく、夜はふけていった。その間もずっと隼珠は色をなくした顔で、食事もできず俯いて黙りこんでいた。
「隼珠坊、具合でも悪いんか?」
 源吉が心配そうにたずねてきたが、隼珠は無言で首を振った。
「腹でも痛いんか? だったら早めに風呂入ってあっためて寝ろ」
 源吉に促され、風呂をなかば放心した状態で使う。そうしてから、隼珠はひとりで庭におりた。
 月の明るい晩だった。手入れされた庭には、見ごろの紅葉が優雅に腕を伸ばしている。隼珠は浴衣のままふらふらと奥に歩いていき、苔むした石灯籠の裏で匕首を取りだした。
 診療所からの帰り道、隼珠はずっとどうしたら迅鷹に詫びを入れることができるのかを考えていた。指を自分でつめるか、それともひとりででも蛇定を襲いに行くか、と。
 お世話になっている大切な親分さんに、怪我を負わせてしまった。力が至らなかったせいで血を流させた。普通だったら謝るだけで許されるものではない。
 申し訳なさに胸が潰れそうだった。
 迅鷹に対する想いは、尊敬する親分だから慕うというだけのものではない。もっとずっと、深い感情が生まれている。兄に対するものとも違う。憶えていない父に対するものでもない。もっと濃厚で、苦しくて、やるせないものだ。
 その想いは、皮膚を破って身体の内側から魔物のように生まれてこようとする、禁忌の塊だった。
 他人から情夫扱いされれば、怒りで反発するくせに、本当の心はそれを望んでいたのだ。彼のものにして欲しいと願っている。
 誰にも言えない恥ずかしい望みだった。
「……鷹さん」
 名前を呟くと、喉の奥が熱くなる。せりあがってくる痛みは、涙腺を圧迫した。
 足手まといになりたくない。強くなってあの人のそばにいたい。なのに蛇定に蹴りのひとつも入れることができなかった。情けなくて、それだけで死にそうになる。せめてものつぐないに、指を差しだしたい。つたない選択だと分かっていても、そうしないと気がすまない。
 隼珠は鞘から刀を抜いた。しゃがみこんで足元の平たい石に手をひらいて押しつける。グッと力を入れて刃を下ろそうとしたそのとき、背後から声をかけられた。
「隼珠」
 ハッと肩を揺らし、身体を硬直させる。おずおずと振り向けば、そこには亮が立っていた。 
「なにをしてるんだ」
 隼珠の手に匕首が握られているのを見て眉をひそめる。
「……亮さん」
 亮は横にしゃがみこむと、腕をのばして隼珠の手首をつかんだ。
「勝手にこんなことしちゃあいけない」
 険しい口調で咎められる。
「け、けど、俺……」
 情けないほどか細い声がもれた。
「俺のせいで鷹さんがあんなことになったんだ。だから、せめて……」
 喋ると言葉とともに涙もあふれそうになる。亮はそんな隼珠を憂いた眼差しで見てきた。
「お前のせいだけじゃない。俺も取引先で話しこんでしまい、戻るのが遅くなった。詫びを入れるなら俺も一緒だ」
「ち、ちが。俺が、ぼんやり道なんか歩いていたから――」
「隼珠」
 亮がさえぎった。
「親分が呼んでいらっしゃる」
「え?」
隼珠は目を瞬かせた。
「探してこいと言われた」
 そう言うと、隼珠の手を取って立つように促す。
「さっきまで親分と話をしていたが、お前のことを気にかけていなさった。お前、診療所を出てからずっと死人みたいな顔をしてただろう」
匕首を取りあげ、刃を鞘に収めて、隼珠の帯に差してきた。
「行って、どうやって詫びを入れたらいいか、自分で聞けばいい。どうするかはその後だ」
膨れた帯を手でポンと叩いて静かに微笑む。
 亮の微笑に、隼珠は自分が間違ったことをしようとしていることに気づかされた。
「……へい」
 頭をさげて、軽率な行為を謝る。
「すんません」
 亮はそれに、「早く行け」とだけ返した。
 庭を横切って、あいていた裏口から母屋に戻る。台所の土間を通り、草履を脱いで廊下にあがった。一階の奥にある迅鷹の部屋の前まで来ると、そこで大きく息をついだ。障子を通して、中の明かりがもれていた。
「隼珠です」
 座って声をかける。すぐに「入れ」と言われた。障子をあけて部屋に入り、隼珠は正座をして深く頭をさげた。そのまま畳に額を押しつける。
「すんませんでした。鷹さん。俺があいつらに因縁つけられるような不注意なまねをしでかしたせいで、大切な白城の親分さんに傷を負わせてしまって。どう詫びていいか……」
謝罪の言葉を口にすると、自分のしたことが改めて重く肩にのしかかる。
「どんなお咎めでも受けるつもりでいます。なんでも、言われたとおりにいたしやす」
 下を向いたままで、誠心誠意の言葉を伝えた。指とつめろと言われればそうするつもりだったし、出て行けと言われれば――、黙ってそうするしかないと覚悟していた。三百円を返すのに身体を売れと命令されれば、それも受け入れるつもりでいた。
 小さくなって身を震わせる隼珠に、迅鷹はどんな眼差しを向けているのだろう。顔をあわせるのが怖くて、迅鷹の言葉を待つ間、隼珠は自責と後悔に押しつぶされそうになった。
「隼珠」
 しばしの沈黙のあと、静かに呼ばれる。隼珠は俯いたまま「へい」と返事をした。
「こっちへきて、それを取ってくれ」
 言われて、頭をあげた。すると部屋の奥であぐらをかく迅鷹と目があった。
 迅鷹は下帯一枚で、上にネルの寝巻き浴衣を羽織っていた。袖は通さず肩にかけるだけにしている。襟の下からのぞく左腕には、繃帯がきつく巻かれていた。
 その姿がランプの淡い光にうっすらと浮かびあがっていた。
「茶を飲みたい」
 迅鷹が示した先に、茶をのせた盆がおいてあった。離れていたから手が届かなかったらしい。痛みのせいで動くのが億劫なのだろうと思い、隼珠は立ちあがり迅鷹の横に移った。湯飲みの蓋をとってそっと手渡す。迅鷹は受け取ると、うまそうに飲み干した。



                   目次     前頁へ<  >次頁