彩風に、たかく翼ひろげて 20


 湯飲みを隼珠に戻しながら言う。
「牛鍋を食べそこねたな」
 なんのことか、一瞬わからなかった。「へい?」と間抜けに返せば、迅鷹は口の端を持ちあげた。
「連れて行ってやるつもりだったのに」
「……あ」
 そういえば今朝、出かける前に、迅鷹は牛鍋を食いに連れていってやると言っていた。隼珠はそのことをすっかり忘れていた。
「まあいいさ。そのうちまた連れてってやる」
 薄く笑って隼珠を見おろす。その瞳は隼珠の顔ではなく身体を見ていた。
「お前は怪我はなかったのか?」
「え」
 さらに考えもしていなかったことを問われて目を丸くする。自分のことなど全く気にかけていなかった。
「ないです」
 もちろんそれも、迅鷹にかばってもらったからだ。
「ならええ」
 迅鷹は右手を伸ばして、隼珠の頬に触れてきた。その手は大きくて、いつものように少し熱かった。さらりとした指先が上気した肌にあてられる。触っただけなのに、隼珠はそこに痛みを感じた。指が離れても痛みは消えない。まるで火傷したみたいに、いつまでもジンジンした。
「詫びは、また今度だ。今はいい」
 迅鷹は静かに告げて、隼珠の腰にある匕首に目をやった。
「お前の小さな指をもらってもしょうがねえしな」
 苦笑と共に言われる。けれど、その幼い子供を扱うような優しさに、隼珠はまた胸が痛くなった。自分の無力さを指摘されたような気がして情けなさにうなだれる。
 瞳を伏せれば、迅鷹の右腕が目に入った。
 袖の下から、刺青の端がのぞいている。それに惹きつけられて、じっと見ていたら迅鷹がたずねてきた。
「見てえか?」
 目をあげて、相手を見返す。
 迅鷹は隼珠の心許なさそうな表情をいっとき見つめてから、両腕をかるく広げた。ぱさりと音を立てて浴衣が畳に落ちると、右肩に翼を広げた鷹が現れた。
 隼珠の目は腕に釘付けになった。
 そこに描かれた禽獣はまるで、これから獲物を捕らえに行こうとしているかのように目をむいて嘴をあけていた。爪は前面に鋭く突きだされ、今にも右肩から飛び立ちそうな迫力に満ちている。攻撃的なその姿に目を奪われた。
 今まで何度か、隼珠は迅鷹の刺青は目にしていた。建設現場で働いているときに下帯一枚で動く子分や職人にまざって、迅鷹も同じ恰好で仕事をしていたからだ。けれど、こんなに近くでじっくり見るのは初めてだった。
 美しい造形は、名のある彫師によるものだろう。右肩にのる鳥とつながって、背中には怒れる鬼神が描かれているはずだった。遠くから眺めていただけだったから、やはりそれも詳しくは知らなかったけれど。
 隼珠が後ろを見ようとかるく首をかたむけると、意図を知った迅鷹が身体をぐるりと回して背後も見せてきた。
「……」
 そこには憤怒で自らの身体を燃やす、壮絶な阿修羅が彫りこまれていた。
 三つの顔がどれも烈火のごとく怒気を放ち、首の上で場所争いをするように暴れている。六本の腕は全て何かにつかみかかろうとするかのように高く掲げられていた。その姿を真っ赤な焔が炙っている。
 こんな凄まじい阿修羅は、見たことがない。荒々しくて凄艶で、見るものを強く印象づける稀有な意匠の阿修羅像だった。
「……すごい」
 思わず、画(え)の上に手をあてていた。滑らかな感触はたしかに人の肌なのに、彩られた表面はそれ以上の価値を思わせる。持ち主の精神を具現化した、唯一無二の鎧だった。
 勝手に触れてしまったことに、ハッと気がついて手を引く。けれど迅鷹は背中で笑った。
「構わねえ。触ってもいいぞ」
「……へぇ」
 許しを得て、隼珠はもういちど阿修羅の腹に触れた。そこは迅鷹の背骨の上だった。
「これは、親父が殺された後にいれたもんだ」
 迅鷹が背を向けたままで言う。
「博徒として生きていく覚悟を、そいつにこめたんだよ」
 紅蓮の焔の先が、指を焼くようだった。それほどまでに心奪われる美しさだった。隼珠はゆっくりと骨の隆起をたどった。
 自分の身体にはまだ墨は入っていない。入れようと思ったこともなかった。けれど、今、迅鷹の阿修羅をみて、自分も同じような覚悟を形として残したいと激しく感じた。
「俺も、彫りたい」
 こんな存在感のある鎧をまといたい。魂の在りどころのような、強く優雅な自分だけの鬼神を。
 隼珠の望みに、けれど迅鷹は冷たく返した。
「お前はダメだ」
「え?」
 きっぱりとした口調でとめられる。
「お前は入れちゃいけねえ。俺たちみたいな、博徒じゃねえんだからな」
 博徒じゃない――。言われて、サッと冷や水をかけられた心地がした。
「……そんな」
 どうして、という言葉が唇からもれる。なぜ自分は博徒として認めてもらえないのだろうか。
「お前は元々、堅気の人間だったろう。兄貴が死にさえしなければ、今頃はどこかで普通に暮らしてたはずだ。こんな世界に足を踏み入れることもなかった。だから、全部が片付いたら、お前はここを去って、元いた世界に戻るんだ。そんときに墨が入っていたらまずいだろう」
「元いた世界……」
 それは、隼珠が十歳まで暮らしていた世界のことなのだろうか。あの、貧しくとも平穏だった日々のことなのか。けれどそこはもう、遠すぎて戻り方など分からない。
「そんなの、無理です。今更、戻ることなんてできやしません」
 今までずっと、人には言えない悪いことをしてきたのだ。罪に汚れてしまった自分が、どの面さげて堅気に戻れるというのか。そしてそれ以上に、自分はもう博徒であると思っていた。この世界に染まりきっていた。
 なのに、迅鷹は、隼珠がこの世界の人間ではないという。堅気にも戻れず、博徒世界の住人でもないと言われて、隼珠はふたつの世界の狭間に落とされたような孤独を感じた。
「博徒のままでいたら、ろくな死に方はできねえぞ。喧嘩に博奕、今日みたいに刃傷沙汰になることも避けられねえ。死んだ兄貴は、お前がそんな風に生きていくことを望んじゃいなかったはずだ」
「……」
 確かに兄の清市が生きていたら、隼珠が博徒になることには反対したに違いない。それでも、運命はこんなふうに動いてしまったのだ。もう変えることはできない。
「八年前の事件がなければ、お前はここにはいなかった。だから、蛇定を倒して仇討ちがすんだら、そのゆがんだ人生をきちんと元に戻せ。なにも知らなかった頃のように修復するんだ」
 迅鷹の言葉は、隼珠の平穏な生活を望んでいるように聞こえた。きっとそう思ってくれているのだろう。けれど、隼珠はそこから突き放されたような淋しさしか感じなかった。
「けど、ここを出て、どこへ行けばいいのか……」
 行先などひとつもない。
「なら、街中に家を用意してやる。仕事もやりたいことがあれば伝手をたどって準備してやる」
 そのいたれりつくせりの言葉に、違和感を覚える。どうして迅鷹はそこまでして、隼珠を堅気に戻したいのか。他の子分にも、同じような境遇ならそうしてやるのか。
「鷹さんは……」
 この人にあるのはただの同情と憐れみだけなのか。
 首だけひねって振り向いた迅鷹に、たずねてみる。
「白城組の他の子分にも、同じように、堅気に戻してやりたいと思ってるんですか。だから、土建業もしてるんですか」
 ただの親切心で、博徒の親分をしているのか。そんな殊勝な心がけの博徒など、聞いたこともないけれど。
 隼珠の言葉に、迅鷹が眉根をよせる。的外れな問いだという顔をした。
「そんなわけあるか。お前だけだ」
「じゃあ、どうして、俺だけにそんなこと言うんですか。俺が邪魔なんですか。左手もまともに使えない役立たずだから、早く追いだしてしまいたいんですか」
 声が卑屈になった。相手は尊敬する人だというのに。
 けれど今まで愛情をかけてくれていたのに、急に手のひらを返したように本心を見せられて、隼珠は野良犬の本性が出てくるのを感じた。
「そういう訳じゃねえ」
 迅鷹も言い返した。駄々をこねる子供を言い聞かせるような口調だった。
「隼珠」
 改めて名を呼ばれる。落ち着いて聞け、と言われている気がした。



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