彩風に、たかく翼ひろげて 21
「お前はさっき、詫びを入れたいと言ったな。今日のことのケジメに言われたことはなんでもすると、はっきり言ったはずだな」
「……」
何を言われるのか予想がついた隼珠は、耳をふさぎたくて一歩さがり平伏した。
「言っただろう?」
念を押されて、「……へい」と消え入りそうな声で答えた。
「なら、今から俺の言う通りにしろ」
「……へい」
小さく丸まって、それでも返事だけはする。本当は言う通りになんかしたくなかった。
「お前がしなきゃならんことはだな、ここを出てだな。堅気に戻って――」
そこで迅鷹は言葉を切った。背を見せたまま、しばし黙考する。やがて苦い声音で呟いた。
「普通に、そうして誰よりも、幸せな人生を歩むことだ」
「……」
隼珠は畳の目を見ながら瞬きした。白城の親分の言ったことが、頭の中に染みてくるまでに時間がかかった。
――誰よりも、幸せな人生――。
それは全く自分にとって無縁の、想像もつかないものだった。
幸福とは、華族とか金持ちの、親に愛された暮らしをする子供が手に入れるものであって、そんなものが自分に手にはいるとは、全然思えなかった。
迅鷹がなぜそんな突拍子もないことを言うのか、隼珠には理解できなかった。
「……お、俺にとって、誰よりも幸せなのは、白城組にいることです」
ここが、今まで生きてきた中で一番いい場所だ。なぜなら、この人がいるから。
「それ以外にはないです」
「そりゃあ、お前が博徒以外の暮らしを知らねえからだ。こんなところで堅気の幸せが手に入るわけはねえ。世間に出て、もっとちゃんとした仕事を手にいれて、稼いで、嫁をとって家族を作るんだ」
それは明確な拒否だった。隼珠はいらない。お前はお前で家族を作れという。博徒の疑似家族から出ていけと言う命令に聞こえた。
「……そんな」
迅鷹は分かっていない。隼珠の幸せがどこにあるのかを。隼珠が一番幸せになれるのは、迅鷹のそばだ。この人のために働いて尽くして最後はこの人のために死にたい。
ただそれだけの想いしかない。なのに、それは迅鷹にとって不要なものなのか。邪魔で、うっとおしいものなのか。
隼珠は迅鷹が命令さえすれば、命を惜しむつもりはなかった。指をつめろと言われれば何本つめても構わないし、赤尾に単身で殴りこみに行けと言われれば喜んで突っ走っていく。その心構えでいる。
どうして、それだけの想いがあることが伝わらないのだろう。どうしたら、分かってもらえるのだろうか。
嫁をとれ、などという言葉は、身を裂かれるよりもつらかった。
「鷹さんは、自分も嫁を取るから、ここにいる俺が邪魔になったんですか」
「なに?」
隼珠の問いかけに迅鷹が高い声をだす。言っている隼珠も自分の言葉の意味など深く考えていなかった。けれどそれは隼珠の中にある沢山の憂いのひとつでもあった。迅鷹だっていつか姐さんを迎える。
「男妾を囲っていると噂がたつと、姐さんによくないからいなくなったほうがいいんですか」
迅鷹が振り向いた気配がした。馬鹿な問いかけをした隼珠をじっと見おろしているのがわかる。
迅鷹が息をつめた。唸り声でため息をつく。
「そう思うのなら、それでもいい」
隼珠の強情さに、あきらめた言い方だった。
言われた瞬間、喉元にぐうッと痛みがせりあがる。下あごがぶるぶると震えて、頭に一気に血がのぼった。
――捨てられた……。
絶望が全身を駆け巡る。
この前、料亭を出たときも、あんなにお願いしたのに。なんでもすると言ったのに。
それに応えて優しさも見せてくれたのに。
拾って、新しい仕事をくれて、道場へも連れていってくれて。毎晩、治療までしてくれたのに。
全部ただの憐憫で、本当のところは、隼珠の力などなんの役にも立たないと思っていたのだ。捨て犬に少しの餌を与えて飢えをしのがせただけだった。腹がくちたら、もういいだろうとばかりに放りだすのだ。
いつの間にか、隼珠は笑っていた。下を向いたまま、唇をゆがめながら笑った。自分の心根の卑屈さと矮小さに笑えてきた。
そうしながら、身の内には怒りがわいてきた。どこまでも理解してもらえない憤りと、自身の無力さに、爆ぜそうな感情が皮膚の下で渦を巻いた。
そして目は泣いていた。ぼろぼろと涙をこぼして、淋しさと悲しさに、死にそうなくらい追いつめられていた。
どうしたらここにいられるのかもう全くわからなくなってしまい、何もかもを放り出す心持ちで禁忌の台詞を捨て鉢にぶつけてしまう。
「……です」
喰いしばった歯の間から、混沌の言葉がもれていた。
「……好き、なんです」
爪で畳を掻くようにしながら、抑えきれない感情を、毒でも吐くように口からだしていた。
「鷹さんのことが、女みたいに……好きなんです」
相手に礼を尽くそうと思うのなら、命令を聞いて、素直に堅気に戻るべきだったろう。恩を返す気持ちがあるのなら。義理を通そうと思うのなら。
なのに、どうしても、それができなかった。
迅鷹から引き離される、どんな理由も欲しくない。
「……だから、ここに、いたい。どこへも行きたく……ない」
相手の迷惑や自分の立場もすべて吹き飛んでいた。これは恋情の吐露ではなく、我欲の礫(つぶて)だった。
「下働きでもなんでもいい……身体を売れと言われたら売る。赤尾に行って死んでこいと言われたらすぐに行く。けれど、白城組を出るのだけは……嫌だ」
迅鷹との絆が欲しい。博徒として、ずっとそばにいたい。
けれどただそれだけじゃなかった。親分として迅鷹を尊敬するだけじゃない。
怨念のように胸の奥から這い出てくるのは、羞恥を振り捨てた恋慕だった。
――愛して欲しい。受け入れて欲しい。
それが、本心だった。あさましく恥ずかしげもなく、男だと言うのに、女みたいに縋っていた。
涙がとめどなくあふれてくる。喉がつまって、みっともない嗚咽があがる。縮こまったままおののけば、頭上の人が身じろいたのがわかった。きっと隼珠のとんでもない我儘に呆れたのだろう。拒否されて当然の告白をしながらそばにいたいと言う、このどうしようもない自分勝手な居候の扱いをどうしたものかと、うんざりしているに違いない。
「隼珠」
名を呼ばれても頭をあげられない。恋の幽鬼のようになった自分はきっと軽蔑をかう。
しかし迅鷹は、そのまましばらくの間、何も言わなかった。
沈黙が部屋に満ちる。時折あげる隼珠のかぼそい嗚咽だけが、ふたりの間に小さく響いた。その静寂の中、恩を受けながらそれを仇で返すようなことを言ってしまったのが、ようやく後悔として胸の奥に生じてきた。
「……っ」
こんな自分じゃ捨てられて当然だ。冷静さがやっと戻ってきて、隼珠は羞恥に身を焼かれながら謝罪した。
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