彩風に、たかく翼ひろげて 24


◇◇◇


 目を覚ましたのは、明け方だった。雨戸はまだあいていないようで、部屋は暗いままだった。外から雀の鳴き声が聞こえてくる。それで、夜が明けていることを知った。
 布団の中は隼珠ひとりだった。浴衣を着せられ、布団もきちんとかけられている。
 昨夜の痕跡もきれいに始末されていた。本当は自分がしなければならないのに、あの後、気持ちよさの夢うつつの中、深い眠りに落ちてしまったらしい。
 隼珠は寝相があまりよくない。なのにこの部屋で寝るようになってから朝起きると布団が捲れていることはなくなった。きっと迅鷹がかけ直してくれているのだろう。まるで子供のように世話をされて、隼珠は申し訳ないやら恥ずかしいやらで顔を熱くした。
 まだ少し痺れの残る股間に手をやって、数時間前の出来事が夢ではないことを確認する。
 あの人の手が自分に触れた。手だけじゃない口も舌も、普通だったら到底触れることのない場所に、何度も、優しく。思い出せば全身がジンと震える。
 迅鷹の長くて節だった指が、中をかき混ぜた。どうしよう。嬉しいけれど、同じほど怖くなる。
 隼珠は火照る顔をブルブルと振った。
 そうして、親分さんがもう起きているのなら自分も起きなければと、気を引き締めて布団から這いだした。浴衣をなおし手拭いを手に寝室を後にする。
 廊下を玄関に向かって歩いていたら、帳場の方から話し声が聞こえてきた。どうやら迅鷹と亮が話をしているらしい。亮は今日の不寝番だったのだろう。隼珠は柱のところまで来て、ふと立ちどまった。
「隼珠に寝床を取られちまったよ」
 迅鷹の声がする。隼珠は頬に血がのぼった。昨夜の痴態が思いだされて、居たたまれなくなる。
「あいつは寝相が悪いからな。すぐに蹴りだされちまう」
 愚痴をこぼしながらも声は笑っていた。隼珠は顔が茹だる思いだった。素早く通りすぎようとして一歩踏み出し、けれど話の中身が気になってしまい足がとまった。
「それでも寝床を別にしないんですから、よっぽどあれがお気に入りなんですね」
 相手をする亮の声も和んでいる。ふたりで茶でも飲みながら喋っているらしかった。
「一緒に寝るのはあいつの肩を冷やさないようにするためさ」
「へえ?」
 亮が不思議そうに言う。隼珠もどういうことかと耳をすませた。
「医者が言ってたんだ。ああいう古傷で筋をこらせた患者は、もんでほぐした後、冷やさないように温めてやると楽になるってな」
「そうなんですか」
 柱の陰で、隼珠は目をみはった。
「だったら湯たんぽでもあててやればすむじゃないですか。わざわざ親分が添い寝してやらなくても」
 それに迅鷹は「まあ確かにそうだが」と答えたあと、
「けれど、俺がそうしてやりたいんだよ」
 とつけ足した。
「やっぱり気に入ってるんですね。あのはねっ返りのどこがそんなに、親分のお気に召したんですか」
 少しかるい調子で亮が言う。迅鷹はけれどその問いに、「そうだな……」と意外に生真面目な声を聞かせた。
 間があいたのは、茶を飲んでいたからだろう。隼珠は足音を響かせる訳にもいかなくて、その場でじっと息をひそめた。
「あいつが気に入ったのは……、あれが、俺に必死になって離れまいとするのを見せつけられたせいかもな」
「ほだされたんですか。確かに隼珠は親分一筋に働いてましたからね」
「いや……。そうじゃなくてだな。まあ、それもあるが……」
 亮の言葉に、またちょっと考えこむように間があく。そうしてから、ふっと笑った。
「あいつのことが大事なのは、時々、火みたいに命が燃えているのを教えられるからだな」
「……へい?」
 迅鷹の言ったことに、亮は曖昧な返事をした。意味を図りかねている様子だった。
「……それは、もしかして、……負い目ですか?」
 続けて亮がこぼした台詞は、隼珠の耳に小さく届いた。
 ――負い目?
 どういうことだろうと、身をのりだす。けれどそこに別の子分が起きてきたらしく、騒々しい声が割りこんできた。
「おや、親分、早いっすねえ。おお、さぶい。今朝は冷えらあ」
 火鉢が出ていたようで、子分はそこに陣取ったらしかった。大声でどうでもいい話を始めたので、迅鷹も亮もそれまでの話題を打ち切った。
 隼珠はそっと廊下を引き返した。迅鷹の寝部屋に戻り、障子をしめる。
 今しがた聞いた会話を、頭の中で繰り返した。
 迅鷹が自分のことを大事にしてくれているのはとてもよく分かった。毎晩、隼珠の肩を抱えて眠ってくれる理由も。その気持ちに胸が熱くなる。昨夜、迅鷹が隼珠を抱いたのは、好きだと縋ったから仕方なくなんじゃないかと実は密かに心配していたのだが、それは杞憂のようだった。迅鷹も、隼珠のことを気に入ってくれていたのだ。
 それは嬉しかった。けれど、もう一つの言葉が気にかかった。
 負い目とは一体どういうことなのだろう。迅鷹が自分に対してそんな感情があるということなのか。それとも別の誰かに対してそう思っているのだろうか。そういえば、迅鷹は隼珠が白城組に来たときから、なぜか特別に親切にしてくれた。
 もしかしたら隼珠の知らない別の事情でもあるのだろうか。なにか負い目になるようなものが。だから、三百円の代わりに隼珠を引き取った。同情もした。ふたりの関係はそこから始まっていたのだろうか。
 考えてもよく分からなかった。
 やがて下男がやってきて、縁側の雨戸をあけはじめた。ガタガタという音と共に朝の清々しい光が、部屋に満ちてくる。
 迅鷹の言った内容が気になりながらも、隼珠は憂いを振り切るように廊下を渡り、早朝の井戸へと急いだ。


◇◇◇


「おい、隼珠。親分が呼んでなさるぞ」
 呼ばれて、隼珠は手にしていた竹ぼうきをとめた。振り向くと、縁側で子分のひとりが座敷を指さしていた。
「へい」
 隼珠は返事をして、竹ぼうきを近くの松の木に立てかけた。
 晩秋の現場仕事が非番の日だった。隼珠は庭仕事をする下男の爺さんを手伝って、広い庭の掃除をしていた。鞠のように丸く刈られたツツジが並ぶ周囲に、紅葉や松の枯葉が散らばっている。それをほうきと手を使って集めているところだった。
 縁側の踏み石で草履を脱いでいると、子分が顔をよせて言い足してきた。
「客も来てる」
「客?」
「ああ。製糸工場の社長だ」
 それを聞いて、背筋に嫌なものが走った。製糸工場の社長と言えば沢口しか思い浮かばない。一体なんの用なのだろう。いぶかしみながら、隼珠は廊下の先の座敷へと向かった。
「隼珠です」
 声をかけると、「入れ」と迅鷹の声がする。障子をあければ、聞いた通りそこには沢口がいた。
隼珠はぺこりとお辞儀をしてから中に入った。座敷には迅鷹と沢口しかいない。伏し目がちに下座に控えると、迅鷹が「もっとこっちにこい」と手招いた。
「へい」
 膝でいざりながら迅鷹の横へ行く。その姿を、沢口はじっとりと絡みつくような目で見てきた。視線を避けながら、隼珠は数日前に現場で沢口に腕をつかまれたことを思いだした。
 あのとき、沢口は隼珠を買い戻してやると言ったはずだった。隼珠の職人姿を見て、迅鷹に気に入られなかったのだと勘違いをして、自分の元へ来ればいいと言った。それを実行しに来たのだろうか。
 隼珠は不安げに横の迅鷹を見あげた。隼珠のそんな様子に気づいているのかいないのか、迅鷹は涼しげな笑みを浮かべて前においてあるものを手に取った。絹の袱紗に包まれたそれを、隼珠に手渡してくる。



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