リカバリーポルノ 03


◇◇◇



「ポリマーの配合比の問題でしょうか」
「添加剤の相性かも。原料メーカーによって性質に若干違いがありますし」
「炭酸カルシウムが悪さしてるのかもです」
「とにかく、ふくれの理由がわからん」
 防水材チームのデスクで固められた島で、建翔と部下が話しあう。
「今年は梅雨が長引いてますから、硬化するまでの湿気も関係しているかも」
 窓の外は梅雨明けを待つ陰気な曇り空だ。建翔はそちらを見ながらうんざりした声で言った。
「気候は他社も条件は同じだろ。向こうは問題なく塗れてる」
 椅子に座っていた建翔は、手にしたペンでこめかみをつついた。
「……とりあえず、一越技研に出荷の継続願いをださなきゃだな」
 気が重くて、ついため息がでる。
「山田部長が話を通してくれているらしいが、俺からも連絡入れなきゃいかん」
 この件の担当責任者は自分だ。建翔が頭をさげないと収まらない。建翔は渋々、電話の受話器を取りあげた。
 また羽純に会わなければならない。三か月前、あれほど嫌そうな顔を見せてきた相手に。
「一越技研が使用している原料の名称と、配合過程がわかればなあ」
 部下のひとりがぽつりと零す。
 かるい気持ちでこぼしたであろう言葉に、建翔の手がとまった。
 ――そうだ、それさえわかれば。
 プレラがどの原料メーカーのどんな製品をどんな条件下で製造しているのか。過程が明らかになれば、それを元に対策は講じられるかもしれない。
 建翔は、羽純の顔を思いだしていた。この前の、怒りにとらわれた顔ではない。大学時代の、まだ関係の壊れていなかった頃の初々しい顔を。建翔のことを慕い、はにかんだ笑顔でいつも話しかけてきたクラスメイトのことを。
 羽純と建翔が初めて出会ったのは、大学の入学式後のオリエンテーションでのことだった。
 ふたりは『今仲』と『一越』という名字のために出席番号が前後になり、それが縁で何かと一緒に行動するようになった。羽純は内気で真面目。授業もノートもきちんとこなし、テストやレポートではいつも助けられた。
 その彼が、自分に好意を持ち始めていると気づいたのはいつのことだったろう。きっと羽純のノート欲しさに、できるだけ優しく接していたから奴は誤解したのだ。建翔のほうには露ほどもそんな気持ちはなかったのに。うまく扱えるしもべのように、建翔は彼を利用した。
 あれはたしか、大学三年の夏の出来事だったと思う。
 蝉がうるさいほど鳴いているキャンパスの片隅に、羽純は建翔を呼び出した。そして泣きそうな顔で告白してきた。――好きなんだと。それは建翔に彼女ができて三日目のことだった。だから羽純もわかっていたはずだ。告ったところで未来はないと。なのに、捨て身の覚悟でアタックしてきた。
「……もしかして」
 建翔は独りごちた。
「もしかしたら、原料名と配合条件。手に入れられるかもしれない」
 謝ろう。あの日のことを。そうして仲直りして――。
 うまくいけば助けてくれるかもしれない。ヒントぐらいは引きだせるかも。謝罪して、頼みこんで食事にでも連れていって。あいつは酒に弱かった。酔わせて介抱すれば、少しは情報をもらすかも。何だったら寝てもいい。欲しい情報を手に入れることができるんだったら、男とだってセックスしてやる。
 不埒な考えとはわかっていた。けれどこっちだってもうケツに火がついた状態だ。身勝手と罵られても構わない、会社に損失をださなければ。いや、自分の首さえつながれば――。
 建翔は自分の思いつきに奮起しながら、電話機のボタンに手を伸ばした。


◇◇◇


「お前よくそんな図々しいこと頼めるな」
 一越技研の応接室で、羽純が呆れた声をだす。今日の彼は、部屋に入ってきたときから機嫌がすこぶる悪かった。
「取り引きは三ヶ月のみ。それ以上は出荷しないと最初に社長が言っただろ」
「そこを何とか、取り次いでいただきたい」
 三か月前と同じ席で、建翔は頭をさげていた。今日は隣に山田はいない。建翔ひとりでの訪問だった。
「お前んとこの分を引き受けたせいで、うちの工場のキャパは越えてる。大体何でお前のケツをうちがふいてやらなきゃなんないんだよ」
 羽純は、一越技研の建材営業部の部長職だった。将来は父親の跡を継いで社長になるという噂を聞いている。昭和初期に創立された一越技研は同族経営であるから、きっとそうなるだろう。
「しかもそっちは新規参入でうちの縄張りを荒そうとしてるってのに。これ以上助けてこっちにはデメリットしかないってわかってるだろ。ていうか三か月で作れなかったお前が無能なんじゃないか。もうやめちまえば?」
 ひどい言葉を投げつけられても、黙って頭をさげるしかない。
「すまない。わかってる。けど、そこをなんとか曲げて」
 ひたすら低姿勢で頼みこむ。けれど、返されるのは冷たい拒否だけだった。
「無理だ」
 憮然とした言い方に、次第に焦りを感じ始める。このまま契約続行がなされなかったら、防水材事業は一時停止、あるいは撤退さえ余儀なくされる。自分はその責任を取らされる。上にも迷惑をかける。
 しかし、羽純の頑固な拒否には違和感を覚えた。もし、嘆願する相手が山田だったなら、ここまで頑な姿勢を取ることもなかった気がする。話し方もかつての彼の穏やかさとは程遠かった。――多分、彼は虚勢を張っているのだ。相手が、昔自分を振って傷つけた男だから。そして、男を好きになるという性癖を知っているから。
 建翔はその弱みにつけこもうと考えた。
「……申し訳ない」
 真摯さを装って、さらに頭をさげる。
「もしかして、八年前のことを、怒っているのなら、まずそれを謝罪したい」
 いきなり持ち出した過去に、ピクリと空気が切りかわった。
 対面に座る相手の顔は見えなかったが、凍りついたのだけはわかった。
 羽純が押し黙る。重い沈黙が部屋に満ちた。
 建翔はガバリと起きあがると、テーブルの横に土下座した。
「本当にすまなかった! あれは俺が悪かった。お前の気持ちを、わかっていなかった。八年間ずっと後悔してきた。この機会に謝罪させてくれっ」
 土下座に抵抗はなかった。羽純の他には誰も見ていない。しかもこれで効果があるのなら安いもんだと考えた。
 それに、ゆらりと目の前の男が立ちあがる気配がした。
 瞬間、ゴッという音と共に後頭部に衝撃がくる。ひたいが床に打ちつけられた。
「謝罪だと。ふざけんな」
 建翔の頭は、羽純の革靴に踏まれていた。
「お前。自分が何やったか憶えてんのか」
 がっ、とまた衝撃。
「俺が、お前のおかげで、どれだけ傷ついたか」
 がつ、がつと足裏で何度も踏まれる。羽純の声はうわずっていた。
「お前が、俺の告白を彼女に言ったせいで、クラスに噂がひろまって。そのせいで、大学いけなくなって、中退したことをっ」
 建翔は無言で衝撃を受けとめた。

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