リカバリーポルノ 02


「お、おう」
 そう返すことしかできなかった。へたなことを言って、契約を打ち切られたら大変なことになる。そうしていたら山田が戻ってきた。
「ああ、一越くん」
「山田さん」
 羽純は山田には愛想よく対応する。
「ありがとう、一越くん。助かったよ。親父さんにもよろしく」
「はい。こちらこそ、よろしくお願いいたします。では、僕は仕事がありますので、これで失礼いたします」
 丁寧に挨拶をした後、廊下の先へと消えていく。
 建翔は華奢な背中を見送りつつ、小さくため息をついた。
 山田と共に、『一越技研』と看板のかけられた社屋をでて正門に向かう。約二万平米の敷地内には工場や倉庫もあるので、機械の動く音やフォークリフトが走りまわる音が聞こえてきていた。
「山田部長は、一越社長の息子さんとは親しかったんですね」
「ああ、僕が以前いた会社に、彼が入社してきてね、いっとき部下だったことがあるんだよ。彼は数年でやめて、一越技研に戻ったけどね」
「そうだったんですか」
 将来家業を継ぐことになる跡取りが、関連企業に修行のため数年働きに出ることはよくあることだった。
 正門を出て、ふたりで話をしながら最寄りのバス停に向かう。途中、信号にさしかかったとき、建翔は一越技研の建物を振り返った。
 本社の向こうに建つ工場の外壁に、印象的な会社ロゴが大きく描かれている。
 同じ建築業界に就職していたから、そして羽純は一越技研の跡取り息子だから、建翔は以前から彼がこの会社の社員だと知っていた。
 けれど向こうは今日、建翔がここに現れることは知らなかっただろう。自分が応接室に入ったときの驚いた顔が目に焼きついている。
 建翔は、わずかではあったが再会を喜んでいた。もしかしたら、昔の自分の失敗を謝ることができるのではないかと。これは神様がくれたその機会だったんじゃないかと。
 しかし羽純にしてみれば、建翔との過去は不愉快なものでしかないようだった。


◇◇◇


 今仲建翔は、中堅私立大学理学部卒業の後、名の知れた化学メーカーである『朝日化学』という会社に就職した。
 朝日化学は繊維、医薬品、建材などを取り扱う総合化学品のトップメーカーで、建翔はその内の建材研究部門に配属されて七年目になる主任職だった。
 十ヶ月前、建翔は所属している製品開発チームから突然、別の開発チームへと異動を命じられた。チームリーダーが、家庭の事情で退職せざるを得なくなり、そのチームの仕事を新たなリーダーとして引き継ぐことになったからである。
 新たなチームは、上の方針で新規に防水事業に参入することが決まったばかりで、新製品の開発途中だった。九割方完成していた製品は、一越技研の防水塗料『プレラ』をお手本にした後発品であり、つまり一越技研のライバル商品になるであろうものだった。
 防水塗料は屋上、ベランダ、プールの底などの建築物に多様に使われ、大きな市場ではないが建物の大切な部分を担う建材である。そして、プレラは防水市場の約半分を占める優良品であった。
 先人のリーダーから一ヶ月という短い期間で引き継ぎのレクチャーを受けた後、建翔は市場に出せる商品として製品を完成させるべく、日々研究開発を進めていった。
 原料メーカーからサンプルを取りよせ、特許面を精査しつつ配合実験を繰り返し、耐久試験を経たのち工場での試作を行う。
 そうしてやっと製品として出荷したのが三か月前。しかし、その直後からクレームが発生した。現場で自社製品が大きな『ふくれ』を作ってしまったのだ。呼ばれて現場に急行した建翔は驚いた。ビルの屋上、一面に塗られた防水塗料、それは分厚いペンキのような代物なのだが、その塗膜がぶくぶくと泡を吹くように膨れている。これではものにならない。出荷は停止し、研究所ではその原因究明と対策を急かされた。
 営業は仕事を取ってきている。工場は稼働している。しかし、欠陥品は売れない。けれど改良は遅々として進まない。チームはまだ扱いなれない製品に、対策を講じるデータも、経験も十分揃っていなかった。
 防水塗料という製品は、ポリマーや硬化剤や増量剤、顔料などを原料として化学反応により硬化させ水を通さない塗膜を形成させる。そこに含まれる原材料は様々で、塗布から硬化までの化学反応も種々存在する。多くの化学薬品メーカーが出している多種多様な原材料の中から、最適な組み合わせと配合比を見つけて、それを工場の大型の釜に順次投入攪拌して製品は作られる。そのどこかに、水ぶくれの原因があるのだ。
 膠着した状態に頭を抱えた開発部上司は、数日後、緊急対策としてひとつの提案をしてきた。
 会議室に呼ばれた建翔は、部長課長らの前で詳細な説明を受けたとき、予想もしていなかった対策に眉をよせた。
 それは、ライバル会社である一越技研に頼みこんで、一定期間だけプレラを売ってもらおうというものだった。言ってみれば、一越技研を、建翔の会社の下請けにしようという訳だ。製品を買い取り、顔料を自社製品に合わせて色つけし、一斗缶につめて『朝日化学』のラベルをはって出荷して一時しのぎをしようという計画であった。
 幸い、朝日化学の常務と一越技研の社長は、建材関係の協会で顔見知りの間柄だった。その伝手で内密に相談を請い、結果社内でもごく一部の人間のみ知らされた計画が進行することとなったのだった。
 日野にある研究所の自分のデスクに戻った建翔は、ため息をついてPCを立ちあげた。そこに実験用サンプルとクリップボードを手にした部下がやってくる。
「主任お帰りなさい。どうでした? 一越技研」
 現在、建翔のグループは彼とあとふたりの四人体制で開発が進んでいた。
「三か月間だけ、売ってくれるってよ」
 はあ、とため息をついてメールチェックをする。
「三か月ですか。どうなんでしょう。厳しいっすね」
「頭いてえよ」
 研究以外の書類仕事に手をつけながら、建翔は嘆いた。
「しかし一越技研さんは、今回の無理な契約をよく引き受けてくれましたね。僕は体よく断られるか、厳しい条件をつけられるのかと思いましたが」
「うちの常務と一越社長は建材関係の会合で顔見知りの間柄だし、一越さんは他製品でうちから原料を仕入れてるからな。その関係もあるんだろう。まあ、その辺は業界内でうまく回して助け合っているってことだ。ここ数年は東京オリンピックのおかげで景気も上向いてるから、それも幸運だったんだろうな」
「けれど、それで結果がでなければ、どうなるんすか」
 建翔ほど責任のない部下が、痛いところをずけずけときいてくる。
「どうなるもなにも、この新製品のために工場はライン導入してるし広告はうってるし、営業は仕事取ってきてるしで千万単位の損失がでるだろな。俺はチームを外され左遷もしくはクビ」
 考えただけで、背筋が寒くなる。
 この会社に就職するのに、どれだけ苦労したか。就職氷河期に建翔程度の大学で、この一流化学品メーカーに滑りこめたのは僥倖としか言えなかった。同級生にも親戚にも胸をはって自慢できる就職先だったが、仕事で失敗して辞めるとなると笑いものになるだろう。自分から辞表をださなければ残れるだろうがそれでも無能と烙印を押され定年まで笑い話の種にされる。
 とにかく死ぬ気で現行品を改良しなければ。
 ただそれだけに頭を集中して、建翔はPCに向きあった。
 しかし、不運なことに、三か月では結果は追いつかなかったのだった。



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