リカバリーポルノ 01


 六月末の、蒸し暑い日だった。
 梅雨まっただ中にもかかわらず、その日は晴天で、せまい室内にはブラインドを通して強い日差しがさしこんできていた。
 初めて訪問したライバル会社の応接室は、クーラーが寒いほどきいていたが、ソファに座って平身低頭している今仲建翔(いまなかけんしょう)の背広の下には汗がにじんでいた。
 うなじに落ちてくるストライプの日光が熱い。それを不快に感じつつ、建翔は隣に座った上司の山田とともに、さらに頭をさげて言った。
「どうぞ、よろしくお願いいたしますっ」
 ふたりの大きな声が部屋にひびく。緊張した挨拶に、対面に座った作業着姿の壮年の男は、鷹揚な様子で答えた。
「お二方とも、頭をあげてください。この件についてはもう、そちらの常務さんに、了解の返事を送っていますので。お引き受けする方向で、話が進んでいますから」
 この会社の社長である一越(いちこし)からの返事に、建翔は山田と一緒にはじかれたように頭をあげた。
「ありがとうございますっ」
 助かった、とばかりに笑顔を向ければ、老舗の建材会社の社長である一越は、現場主義者らしく日焼けしたいかめしい顔に微笑みを浮かべて言った。
「今回は大変でしたね。自社製品の建材に欠陥が見つかり、その対策が追いつかないということはうちも過去に経験がありましたから苦労はよくわかります」
 一越がこちらの事情を察し、理解ある言葉をかけてくる。
「この取引は、我が社には利益はまったくありませんが、色々と付き合いもございますし、三ヶ月だけという契約で、協力させていただきましょう」
 そう言って、社長は横に座った若い男に顔を向けた。 
「山田さんには、うちの息子が以前修行で出ていた会社でお世話になりましたんで。それもありますから、ここで恩返しが少しでもできればと思いまして」
 建翔の対面のソファには、一越ともうひとり、スーツ姿の男が腰かけていた。
 先ほどから営業用の微笑を端整な顔に浮かべているのは、この会社の跡取り息子で建材営業部部長である、一越羽純(いちこしはずみ)という男だった。 
 息子の羽純は、細身の身体に濃紺のスーツをきっちりと着こなし、額をかるく見せたミドルショートの髪を涼しげに整えていた。身長は百八十センチを越える建翔より若干ひくく百七十五センチほど。スタイルがよく小顔な顔立ちをしているので、一見すると芸能人かモデルのように見える。二重のくっきりとした目元に、形のよい鼻筋とその下の唇。今は澄ました表情をしているので近よりがたい雰囲気があるが、笑えば華が咲くように愛らしさが加わることを建翔はよく知っている。
 なぜなら、学生時代は共にすごした間柄だからだ。
 建翔と羽純は、かつては同じ大学の理学部で学んだクラスメイトだった。
「うちの担当はこれにさせましょう。その方が山田さんもやりやすいでしょうし、これは今、本社営業部においてますんで」
 社長が息子を示して言う。それに羽純が微笑みながら頷いた。
「山田部長、どうぞ、よろしくお願いいたします」
「いや、こちらこそ、お世話になります」
 山田が恐縮しながら頭をさげる。横で建翔も同じようにした。
 そうしながらそっと目の前の男を見あげる。羽純はこちらを見ていなかった。
 建翔と山田がこの会社に持ちこんだ案件は非常識なものだったが、建翔は訪問前から、胸中に一種の期待を含んで交渉に臨んでいた。
 こちらからの提案は難しいものであるけれども、羽純を通して何とかうまく事が運ぶのではないかと、そう踏んでいた。
 なぜかと言えば、この男――一越羽純は、大学生のとき建翔に告白するほど惚れていたからだ。
 しかし、互いの考えの行き違いのせいで結果は不幸な終わり方をしていた。
 だが、羽純はまだ、自分に惚れているのではないだろうか。八年ぶりの偶然の再会に、建翔はそんな風に心の中でうぬぼれていた。
「うちの方の担当は、この、今仲になっております。今後は今仲を通じてご連絡差しあげることになると思います」
 山田に言われて、建翔も頭をさげたまま「今仲です。よろしくお願いします」と自己紹介をする。
「わかりました。こちらこそよろしく」
 涼しげな声音に安堵して顔をあげる。しかし、羽純はやはり建翔を見てはいなかった。
 話かけているのは山田に対してだけだった。こちらのことは、この部屋に入ってきたときからずっと無視し続けている。
「……」
 放り出された笑みが強ばったが、それでも契約はもらえたのだ。彼を見ながら、建翔はとりあえず胸をなでおろした。
 細かい話し合いは後日あらためてと取り決めてから、挨拶をして山田と共に応接室をでる。
 深々とお辞儀をしたあと、ドアをしめて廊下に立つと、山田がいきなりブルリと震えて言った。
「緊張しすぎた。ちょっとトイレ行ってくる」
「大丈夫ですか」
「ああ、君は、受付横の休憩所ででも待っててくれんか」
 そう言うと周囲を見渡し、トイレマークを見つけてそちらに走っていく。残された建翔は、言われたとおり受付ちかくの休憩所に向かった。
 昭和時代に建てられた一越技研の本社ビルは、デザインは古いが手入れが行き届いている。
 建翔は四階建て社屋の一階廊下を進み、正面玄関まで戻っていった。女子社員がふたり座る受付の隣に、パーティションで区切られ、植木鉢がならぶ一画がある。
 以前は喫煙所だったであろうその狭い空間には、飲み物の自販機とベンチがおかれていた。
 誰もいないそこに、手持ちぶさたで何となく周囲を眺めつつ佇んでみる。壁には鏡がかかっていた。シンプルな長方形の下部に、どこかの会社の十周年記念寄贈と字が入っている。
 その中に、少し疲れの見える自分の姿が映っていた。
 短い黒髪に、切れ長の一重の目と高い鼻筋。若干厚みのある唇に鋭利なあごのライン。
 人には整った顔立ちと言われるが、理系特有の未熟な社交性がスーツを着ていても営業や企画とは違うどこかあか抜けない雰囲気を漂わせている。インテリっぽくないのはガタイが無駄に大きいせいもあるだろう。
 ぼんやりと自分の姿を見ていたら、鏡のすみに先刻自分を無視した男が映りこんできた。
 廊下の向こうから歩いてきて、建翔を見つけ露骨に嫌な顔をしてみせる。それでも契約がうまくいった嬉しさからか、かつては友人だった気安さからか、建翔はふり返って笑顔で話しかけた。
「やあ、羽純」
 手をあげて、気さくに呼びとめる。
「助かったよ。おかげで首がつながった」
 昔のことはなかったかのようにふるまうと、羽純はいきなり睨みつけてきた。
「は。ふざけるなよ。気安く呼ぶな。お前がいるとわかってたら絶対に担当になるのは断ってた。あれは山田さんの望みだったから引き受けたんだ」
 さも嫌そうに口元をゆがめる。その表情には昔のような愛らしさは欠片も残っていなかった。
「二度と会いたくなかった。お前には。契約は三か月だ。それ以上は一日たりとも受けないからな。覚えとけよ」
 憎々しげに言い放つ。
 それで、建翔は相手がまだ傷ついたままなのだということがわかった。



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