リカバリーポルノ 07


◇◇◇


 午前零時をすぎた総合病院の廊下は、人気もなく薄暗かった。
 闇だまりには、幽霊がひそんでいるような不気味さが漂っている。建翔はそれから目をそらし、頭を抱えうなだれた。処置室の前の待合所で、ベンチに腰をかけてから一時間ほどがたっている。
 あれから羽純はやってきた救急隊員によって、慌ただしく救急車にのせられ総合病院へと搬送された。病院では診察後に胃洗浄の処置を受け、点滴の治療を受けた。一緒にいた建翔も事情の説明を求められた。
 連絡が早かったせいで、命に別状はないようだった。手当てが終われば医師から、「経過を観察しつつ落ち着いたら一般病棟に移します」と伝えられる。連絡先は、と問われて教えたらまずいかと思い「わかりません」と告げた。
 医者の顔が平坦で事務的なのに、建翔はかえって気まずさを覚えた。夜遅くにテキーラにローション、ドラッグを飲んでほぼ裸で運びこまれた男とその友人。下世話な想像をされても仕方がなかった。
 立ちあがり、離れた待合所にある自販機までいって缶コーヒーをひとつ買う。飲み干してから処置室前に戻れば、羽純は病室に移された後だった。看護師に部屋を聞いてそちらに向かう。意識は戻っているだろうが、どう声をかけていいものかと考えてしまった。
 そして騒ぎが一段落してみれば、真っ先に頭に浮かんでくるのは、あの懸案事項のことだった。
 ――原料名、配合条件、製造過程。さらに契約の更新。
 そもそも、それが欲しくてあんな取引をしたのだ。男に掘られるのも覚悟で出向いていった。結果、そうはならなかったが、だったら約束はどうなるのか。手ぶらで帰るには問題は大きすぎる。身勝手であることはわかっていたが、ここまできてそれはないだろうという気持ちがわいてきた。
 羽純の身体のことは心配だ。けれど、そのヤマが越えられたら、あとに残るのはこっちの心配事だけとなった。
 建翔は重い足取りで病室に向かった。ナースステーションで許可をもらってから『一越』とネームプレートのつけられた個室までいく。スライドドアをノックして横に引くと、部屋の中は暗かった。
「……羽純」
 カーテンがしめられていたので、その隙間から中をうかがう。羽純は腕に点滴をつけられ、ベッドに横たわっていた。目はあいている。それに安堵した。
「大丈夫?」
 そっとベッドに近づくと、羽純はふいと顔を反対側に向けてしまった。きっと建翔と顔をあわせたくないのだろう。その気持ちも理解できたので、ベッド脇に立って声をかけた。
「大変な目にあったな。けど、無事でよかったよ。お互いにな。で、お前、家に連絡はしなかったんだろ。何か、必要なものがあったら言えよ、俺、揃えてきてやるぞ」
 どれだけ入院することになるのかはわからなかったが、とりあえず着がえなどは必要だろう。そう思って、なるべく穏やかに話しかけた。建翔の口調に、羽純も緊張が解けたのが、ゆっくりと頭をめぐらせてきた。
 その目には、悲しみがあった。
 この瞳は見たことがある。かつての、まだ若かったころの彼の目だ。建翔は胸にツクンと痛みを感じた。
「……今仲」
 弱々しい声で呼ばれる。
「うん」
「悪かった」
「うん」
 建翔は殊勝にうなずいた。
「こんなことになるとは、思ってもみなかったんだ」
「わかってる。俺も怖かったけど、お前も怖かっただろ」
 優しく言えば、羽純の目に涙があふれた。それが枕元の灯りで照らされる。男にしては線の細い、青白い顔がわななく。それで思いだす。元来、羽純はとても内気で、繊細な奴だったことを。再会してからの一種太々しいような振舞いはやはり無理をしていたのだ。
「俺のほうは気にするな。尻むかれた位だったからな。怪我もねえから。まあ、お前には見られちまったけど。傷はそれぐらいか」
 口元を持ちあげれば、羽純は大きく目を見ひらいて、それから、「ごめん」と謝った。
「いいよ、それよか、――約束のことだけどさ」
 建翔の頭の中には、呪文のことしかなかった。だから、まず、それを持ちだした。
 そのとたん、羽純の表情が変わった。サッと色が失せて、涙が消えていく。
「――ああ……」
 視線をさまよわせ、うわの空でか弱い声をもらした。
 先刻までの情感あふれる顔が、次第につかみどころのないものに変わっていく。
「そうだったな、ああ、そうだな……」
 羽純は点滴の刺さっていないほうの手で、無造作に髪をかきあげた。正気を取り戻し始めた冷淡な顔になって低く呟く。
「悪いけど、ナースステーションへいってペンをかりてきてくれ」
 言うと、建翔から目をそらした。
 頼まれたとおりペンをかりて病室に戻れば、彼はベッドに起きあがっていた。
「腕をだせ」
 と言われたので、ベッドに腰かけてシャツをまくりあげる。腕を差しだすと、羽純はそこに何かを書きだした。
「……」
 それは、プレラに関する情報だった。原料名、配合条件、製造過程。建翔の欲しかったデータを手から腕へと書きつけていく。
「何でここに書くんだよ」
「書面で渡すわけにはいかないだろ。社外秘の情報だ。だからここに書くんだよ」
「ああ、そうか」
 手を動かしながら、羽純がぼそりとささやく。
「お前んとこの商品、ふくれてんだろ。なら、可塑剤を最小限まで減らしてみろ。ふくれの原因は大抵それだから」
「……」
「現場で何度も経験しないと、わかんないこともある」
「わかったよ。試してみる」
 左腕が文字でびっしりと埋まる。全て書き終えると、羽純はひとつ大きくため息をついた。
「これでいいだろ」
 ペンを建翔に投げて、ベッドに横になる。そのままごろりと建翔に背を向けた。
「ありがとう。助かる」
 シャツを引き下げ、書かれた文字を隠しながら礼を言う。
 羽純はひどく冷たい声で応えた。
「もう二度と、お前には会いたくない」
 そう言ってもう、こちらは振り向かなかった。



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