リカバリーポルノ 10


 そう考えていたら、ポケットのスマホが震えた。
 取りだして見てみると、『一越羽純』と表示されている。急いで通話状態にした。
「羽純」
 声を大きくして呼びかける。しかし、相手からの反応はない。建翔は歩みをとめてスマホを耳に押しつけた。
「おい」
 電話の向こうから何も音がしてこないので、通話が切れたのかと思ったが、そうではなかった。耳をすませば、ほんのわずかな、消えそうな声がもれ聞こえてきた。
『……そっちは、大丈夫なのか』
 羽純の声だった。ひどくか細くて、今にも死んでしまいそうな。
「ああ、大丈夫だ」
 言ってから、少しためらう。
「いや、まだ、大丈夫な感じ、って、ところだけどな」
『……ああ、そうか。じゃあ、お前も、観たんだな』
「今日の昼な」
『そうか』
「羽純、お前の方は大丈夫なのか?」
『俺は終わったよ』
 呆然としたような、けれども軽い言い方だった。そのまま声が聞こえなくなる。続く沈黙に、建翔は不吉な予感を覚えた。
「おい、お前、今、どこにいるんだ」
『え……』
「どこにいるかって聞いてんだ」
『どこって』
「一度、会って話をしよう」
『話?』
「ああ、そうだ。話をしなきゃならんだろ」
『何の……』
「今後の対策だよ。これからどうすりゃいいのかって」
 電話の向こうから、乾いた笑いが聞こえてきた。
『そんなもの。俺にはもう、今後はないんだよ。話すこともない。最後に、お前に謝っとかなきゃと思っただけだ』
 何を言ってるんだ、と怖ろしくなる。
『今仲、悪かった。俺のせいで、こんなことに巻きこんでしまって。どう謝罪していいのか、見当もつかない。ただ、お前だけは、バレないでいることを祈ってる』
「羽純」
『本当に、すまない……それぐらいしか、もう、できない』
「お前、死ぬ気か」
 返事がない。建翔は焦った。
「今、どこにいる? 迎えにいく。冷静になれ。死んじゃダメだ」
『悪い、もう、電池がない。ずっと着信なりっぱなしでさ。はは……、もう、ダメなんだよ』
「おい、落ち着けっ、場所を言えっ」
 人ごみの中で、建翔は大声をだした。周囲の人間が振り向くが、構ってなどいられなかった。
「迎えにいってやる。だからどこにいるか教えろ」
『無理だよ。今仲。ここがどこなのか、俺にも、わからないから』
 自分の居場所がわからないとは、いったいどこにいるというのか。
「どうやってそこまでいった?」
『憶えてないな』
「周りに何がある? 目印になるようなものはないか」
『ないな……真っ暗で何も見えない』
 真っ暗とは。都心ではないのか。それとも地下か、郊外か。
「だったらっ」
 スマホを握る手が震えた。
「だったら位置情報を教えろ。そういうアプリがあるだろ。インストールしろッ。すぐに迎えにいくから」
『いいよ、もう』
「羽純、いいか、よく聞け。俺が、迎えにいく。死ぬんじゃない。とりあえず、俺に会え。話をしよう、場所を教えてくれたら、何でもする。お前の言うこと、何でも聞くから」
『お前、……前もそう言ったよな』
 土下座したときか。
 羽純が呆れ声でゆるく笑う。それにわずかな救出の糸口を見つける。
「ああ、そうさ、何度でも言う。場所を教えろ。死ぬな。そうしたら、お前のして欲しいこと、何でもする。何でも言うこときくから言え、言えっ」
 しばし沈黙が流れる。羽純が答えを逡巡している。それが感じられた。
『だったら……』
 じっと次を待つ耳に、かすれた、夢見るような声が届く。
『だったら、最後に、お前と一度でいいからセックスしてみたい』
 それは、叶わぬ望みをとなえるかのような、儚げな言い方だった。この世を去るのに、ただ、それだけが心残りであったというように。
 建翔は声を張りあげた。
「ああ、いいとも、してやる。お前とセックスしてやる。いくらでも抱いてやるっ。好きなだけ、セックスしてやる。だから、俺の、言うとおりに、アプリをインストールしろっ。しろッ!」
 通りの真ん中で大声で叫ぶ。誰も彼もがビックリした顔で振り返ったが気にしなかった。
 目の前には、助けを求める羽純の姿しか見えていなかった。


◇◇◇


 羽純の居場所は、山梨県の山奥だった。
 建翔は地図をスマホに保存すると、すぐに近くのレンタカー店をさがして飛びこんだ。建翔は免許は持っているが車は所持していない。実家に帰ったときに乗る程度だったが、免許証は身分証代わりに常時携帯していたので、それを提示して車を借りると、山梨へと向かった。
 羽純とメッセージアプリでつながるも、ほどなく既読はつかなくなった。どうやら電池が切れたらしい。それとも彼の身に何か起こったのか。はやる気持ちをいさめつつ、安全運転で目的地を目指した。
 やがて車は県境をこえ、人里離れた場所へと向かい始めた。建物がなくなり、田畑だけが広がりだし、そうして山が近づいてくる。幹線道路を外れ、地元民しか通らないような寂しい道をただひたすら進んでいくと、カーナビは山へ続く小さな脇道を表示した。舗装もされていない小道を、車をガタガタいわせながら進んでいく。そしてついに、地図の示す羽純の居場所へと到着した。
 山道のどんづまりで車をおりると、周囲は高い木々と雑草ばかりで、明かりはひとつも見あたらなかった。闇夜で音もなく、こんな場所まで電波が届いていることに驚いたが、それも有難かった。あるいは羽純が電波の届く所まで移動したのか。最後に建翔に連絡を取るために。
 羽純を追いこんだネットの利便性がまた、彼を救おうとしてくれている。その皮肉さに笑いを通り越して泣きそうになる。
 建翔は車に常備されていた懐中電灯を取り外すと、点灯して雑木林の中に一歩踏みこんだ。



                   目次     前頁へ<  >次頁