リカバリーポルノ 20


 羽純は三十分ほどして家からでてきた。きちんと背広を着ていたがその目元は赤く腫れあがっていた。
「おい、それ……」
 きっと父親に殴られたのだろう。
「大丈夫だ」
 足が少しふらついている。
「本当にいけるのか。無理なら帰ってもいいんだぞ」
 それに羽純は、歯を喰いしばるようにして言った。
「大丈夫。今ならいける気がするんだ。やれるのなら、その間に事務的に全てすませてしまいたい。きちんと終わらせてから辞めないと」
「辞めるのか」
「ああ。もうこうなっては無理だろ。辞めるしかない」
「……そうか」
 細い身体を支えながら、助手席にのせてやる。
「すまないけど、指定した場所に運んでくれるか。俺が担当していた取引先とか、古くからの知り合いとか、謝罪しないといけない会社がいくつかあるんだ」
「わかった」
 運転席に座り、住所を聞いてカーナビに入力する。
 その日の午前中は、都内の何ヵ所かを巡り、羽純の謝罪行脚に運転手としてつきあった。建設会社、工務店、建築事務所。一社いくごとに羽純は疲れた顔になって戻ってくる。段々と生気が削られていくのに心配しながらも、本人は「今日中に終わらせておきたい」と言うので、言われるがまま建翔も車を飛ばした。
 午後三時すぎになって、主要な取引先への陳謝は終了したらしく、羽純は「最後に本社にいかないと」と言った。その頃には疲労も限界にきているようで、精神力だけで何とか持ちこたえているように見えた。
「本社ではきっと後始末に時間がかかる。待たせると思うから――」
「いいよ。何時間でも待ってる」
 皆まで言わせず口をはさんだ。
「車、駐車場にとめて待ってるから。もし社の連中とそのままでかけなきゃならなくなったりしたら、そんときは連絡くれればいい」
「……うん」
 赤信号でとまったときに、腕をのばして相手の手をギュッと握る。華奢な手は汗ばんでいて、なのにひどく冷たかった。
「待ってるから、ちゃんと戻ってこいよ」
 元気づけるように言うと、羽純はわずかに笑顔を見せてきた。
 一越技研の正門をくぐり、倉庫の横にある駐車場のすみに車を停める。羽純は「ふうっ」と深呼吸をひとつして、それから車を降りていった。細身のスーツ姿が遠ざかるのを運転席からじっと見送る。
 空を見あげると、どんよりとした曇り空になっていた。
 朝、目覚めたときは晴れていたのに、今は分厚い雲がわいている。羽純を待ちながらぼんやりと外を見ている内に、雨がぽつりぽつりと降りだした。
 やがて、ざあざあと音をたてるぐらいの本降りとなる。秋の冷たい雨に、車内の温度もさがっていった。
 隣の倉庫からは、間断なくフォークリフトが走り回る唸りが聞こえてきている。大型トラックも何台も出入りしていた。一越技研は、羽純の騒動があっても製品は出荷されているようだった。忙しく働く作業着姿の社員もちらほら見られる。
 ふと、目にとまるものがあって、そちらに視線を向けてみた。フロントガラスの向こう側、筋を引いて流れる雨の中に、ブルーシートに覆われた大きな塊が見える。鮮やかな青は目立っていた。建翔はシートから身を起こした。
 ブルーシートがかぶせられているのは大量の一斗缶だった。おそらく一トン分はあるだろう。それが倉庫の外で雨に濡れている。
 あんなところに積んでいたら商品としてさばけなくなるだろうに、倉庫に入りきらなかった在庫なのか、もしくは出荷待ちか。
 いや違う、あれは多分、出荷する予定のなくなった余剰分――。
「プレラだ」
 建翔は目を見ひらいた。シートの下部からのぞいている見慣れたラベルは確かにプレラだった。
「まじか……」
 ハンドルにおいた拳を握りしめる。
 三か月前の、あのクレーム騒動が解決した後、建翔の担当した製品は順調に売れていた。毎月の売上高も伸びている。
 つまり、それだけプレラの市場を奪っているということだった。
 雨に濡れる製品を見ながら、建翔は胸に何ともいえない重苦しさを覚えた。
 建翔の会社が防水事業に進出したときから、プレラ側もただ指をくわえて見ていたわけではなく、新たなライバル製品に相応の対策を講じていた。営業や宣伝にも力を入れていた。しかし朝日化学の製品も負けず劣らず優秀だった。それは、羽純から得た情報があったからだ。
 一越技研は、羽純が建翔に製品情報をもらしたために、売りあげを落としている。だから多分、あのプレラは生産はしたものの出荷予定がなくなって、致し方なく倉庫の外にだされたものなのだろう。
 もちろん一越技研の扱う商品はプレラだけではない。他にも建築材料を数種類取り扱っている。それでも、プレラの売りあげが落ちて大きな損失はでているはずだ。
 建翔は拳を自分の口に押しあてた。
 羽純もこのことは知っているだろう。いやきっと、建翔にデータを渡す前からこうなることは予測できていたはずだ。建翔の会社のほうが一越技研よりも規模は大きいし、営業範囲も広い。
 なのに、あの日、病院で情報を建翔に渡してきた。
 それはなぜか。跡取り息子が自社製品の極秘情報をライバル会社にもらすなど、通常では考えられないことをあえてしたのはどうしてか。社会人として当然持つべき常識や、責任能力が欠如していたのか。過去の恨みを晴らすためだったら、データを渡すことにも抵抗がなくなるほど建翔を憎んでいた結果、復讐に失敗した代償として手放したのか。
 ――いや、そうじゃない。
 そうじゃなかったのだ。
 建翔は自分の中指に歯を立てた。
 羽純はきっと全部わかっていた。わかっていて、それでも、こちらに社外秘の情報を与えたのだ。
 それは、建翔が土下座をするほど追いこまれていたからだ。男に掘られても構わないと思うほど切羽つまっていたからだ。
 羽純は、建翔を、ただ助けるためだけに、大切な自社情報を腕に書いた。
「……っ」
 ――お前は馬鹿だ。俺も馬鹿だが、お前も同じほど大馬鹿者だ。
 雨に濡れるブルーを見ながら、自分の指を噛みしめる。
 社会人としての常識から外れたことを、こんな男のためにしてしまうなんて。自分の会社よりも、跡取りとしての責任よりも、建翔を救うことを優先するなんて。
 その結果、彼は全てを失ってしまった。社会の枠から足を滑らせ、戻れない場所へと堕ちてしまった。
 ――今仲、ずっと会いたかった。愛してた。
 掠れた声が、耳によみがえる。
「……羽純」
 ハンドルに突っ伏して、きつく目をとじる。
 そのとき、初めて建翔は、彼のことを愛おしいと感じた。



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