リカバリーポルノ 21
◇◇◇
夕刻になって、羽純は車に戻ってきた。雨足は強く、陽が落ちて間もなくの時間だったが周囲はもう真っ暗だった。
「終わったか?」
羽純は落ち着いた表情をしていた。
「うん」
「そうか」
「詳細はこれからだけど」
スーツについた水滴を払いもせず、大きくため息をつく。
「なら、これからどうする? 俺の家に帰る?」
「……いや」
羽純はフロントガラスの先の闇を見つめながら言った。
「自宅に戻る。それで、今後のことを父親と話しあわないといけない。弁護士もくるらしいから」
建翔は車のエンジンをかけた。
「なら、送っていくよ」
「すまない」
「羽純」
ライトを点灯し、ワイパーを動かす。
「うん」
こちらを向いた顔は、青白く、まるで死人のようだった。
「何かあったら、すぐに連絡をくれ」
瞳は闇に続く洞穴のように黒々としている。
「……ありがとう」
「何もなくても、経過報告だけはしてくれ」
「ああ」
羽純は口の端をほんのわずかだけ持ちあげた。
「それで、きちんと目途がついたら俺のとこに戻ってこい。いつでも待ってるから。あのマンションで、お前がくるのを待ってるよ」
「うん」
「そうしたら、また溶けるまでセックスしよう」
羽純の表情がくしゃっと崩れた。
助手席へ手を伸ばしてスラックスの腿をかるく叩く。
この言葉がまた、魔法のように羽純を守ってくれればいいと願いながら、アクセルを踏んで車を発進させた。
◇◇◇
そして次は、自分の番だった。
建翔は翌日、緊張しながら日野の研究所に出勤した。
部長の山田からは、二日前に意味深なメールが送られてきている。『出社したらすぐに緊急の打ち合わせを』というしらせには、緊急の内容が添えられていなかった。
「おはようございます」
研究所二階の事務フロアで、デスクに鞄をおきながら周囲に挨拶する。
「おはようございます。今仲さん、久しぶりですね」
「ああ。有給消化もかねてゆっくりさせてもらったよ」
笑いながら話しかけてくる部下に、返す笑顔が強張る。こいつらは皆、自分ことをどの程度疑っているのだろう。ネットでは『朝日化学の社員ではないか』という噂も出回っている。バレたら今の立場はどうなるか。怖ろしくて考えたくもなかった。
朝一で緊急の会議を、と山田から通達されていたので、ひとつ上のフロアにある会議室に向かう。指定された小会議室をノックしてドアをあけると、そこにはもう山田が椅子に座って待っていた。部屋には他に四人の背広姿の男がいた。首から下げた社員証を見るかぎり、同じ会社の人間のようだ。
「遅くなってすみません」
時間に遅れてはいなかったが、一応謝罪する。それに山田が優しげな声で話しかけてきた。
「いや。どうだい、調子は」
「はい。長い休みをもらってしまってすみませんでした」
言いながら、勧められた場所に腰をおろす。
会議用の大きなテーブルの一方に建翔、対面に山田と四人の男が座る形となった。
「まず、君に紹介しておこう。こちらは本社から来てもらった、総務、法務、広報、情報システム部門からの、危機管理グループメンバーだ」
建翔は緊張した面持ちで頭をさげた。相手も同様な様子で挨拶をしてくる。
互いに紹介を交わしあった後、グループリーダーと名乗った壮年の男が最初に口をひらいた。
「わが社のネット上のトラブルに関する危機管理対策は、君も知っているはずだね」
建翔はできるだけ平静な顔でそれに答えた。
「はい。研修を受けていますから」
リーダーの横に座ったグループメンバーのひとりが、テーブル越しにクリップで留めた書類を渡してくる。
「じゃあ、まずこれを見てください」
建翔は腰を浮かせて、冷静に書類を受け取って目を落とした。そこには、メールのコピーや会話文が印刷されていた。怖れていたとおりの内容が並んでいる。しかし、何のことかよくわからないという顔を取り繕った。
建翔が一通り文面を確認するのを待ってから、リーダーが再び話しだす。
「実は数日前から、コールセンターに奇妙な電話がかかりはじめてね。相談窓口にも同様のメールが数件届いている。内容はすべて、要約すると『ネット上にさらされた裸の男の写真が、貴社の社員と酷似している』というものだった。どうかね、君に、何か心当たりは?」
グループリーダーの男が、丁寧な口調で問いかけてくる。
建翔は書類を見ていたが、目が滑って内容は頭に入ってきていなかった。読んでいる振りをしながら押し黙った建翔に、リーダーは続けて言った。
「もし、君に何か困った事態が生じているのなら、我々が、力になりたいと思っている」
手のひらに、じっとりと嫌な汗がわいてくる。奥歯が震える。緊張で混乱した頭の中で、しかし努めて冷静に考えた。
あの画像に、建翔個人を特定する情報はなかった。
疑いをもってメールや電話をできるのは、建翔の顔を知っている知人か、仕事関係者ぐらいのものだろう。だが誰も確信を持っているわけではないらしい。建翔本人と確定した文章はさしあたって見当たらない。そして多分、会社も建翔と特定していない。
本人が直接呼びだされたのは、事実確認を建翔自身にさせるためだ。問い合わせが来ているということで、社としても緊急の事案であると認定したのだろう。
「……私であると、判断されたのでしょうか」
やっと出した声はしゃがれていた。建翔の言葉に、男らが顔を見あわせる。
「今仲くん」
リーダーがまた口をひらいた。
「たとえばだがね、これはたとえ話として、聞いて欲しいんだが。こういった事件が起きた場合、当事者は得てして混乱のため『自分ではない』と嘘をつきやすいんだ。事態をこれ以上大きくしたくないという防衛本能からなんだろうがね。しかし、安易な嘘は状況を悪くするだけだし、周囲に迷惑をかけることにもなる」
建翔は唇を引き結んだ。
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