リカバリーポルノ 23


 建翔は即座に否定した。
「違う。俺じゃないよ」
 笑い飛ばすように明るく言った。
「勘弁してくれよ。姉さんまで。こっちも迷惑してんだ。あれは俺じゃない。母さんにも違うって言っておいて。心配しないでって」
『――そう、ならよかったわ』
 電話の向こうで、由香子が安堵の吐息をもらす。
『よく似ているし、こっちでも心ない人が色々と嫌な噂してるからさ』
「まじで」
 ベッドに腰かけていた建翔は、片手で頭を抱えた。
『まあ、違うのならよかったわよ。噂だけならそのうち消えるだろうし。仕事に支障がないようならそれでいいわ』
「ああ。何とかうまくやってるよ」
『正月には帰ってくるんだよね』
「うん、帰るよ。――じゃあまた」
 通話を終えた後、建翔はうなだれて大きくため息をついた。ネットの情報は日本のどの地であろうと、均等に広がっていくのだ。
 家族にはできる限り隠し通すつもりにして、手にしていたスマホのメッセージアプリをひらく。
 新しいメッセージを確認していくが、羽純からのものはなかった。
 もう一度、ベッドに横になり、天井を見あげる。
 まるで暗い霧の中を漂っているような、身の置き所のない不安が、ずっと続いていた。光はどこにも存在せず、ただ気持ちは闇をさまようばかりで、時々ひどく息苦しくなり、このまま窒息死するんじゃないかと感じることがある。
 スマホを持っていた指先にしびれを感じて、それをシーツに放り出した。いつの間にか握りしめていたらしい。肩の張りを覚えたので両腕を伸ばしてぐるりと回す。建翔は身体は頑丈な方で、風邪もほとんど引かないし、大きな病気もしたことがない。メンタル面で追いつめられ体調を崩したこともなく、繊細さとはほど遠い体質をしている。姉にもがさつで図太いと幼い頃から言われていた。
 しかし、今回のことはさすがにこたえた。
 ここのところずっと身体の調子がよくない。疲れやすく食欲も落ちた。
 自分でさえそうなのだから、あのナイーブな羽純はどれほど体調を悪くしているのだろうか。
 それを考えるといても立ってもいられなくなり、今すぐにでも顔を見にいきたくなるが、向こうも今は対処に忙しくしている真っ最中だろう。
 そんな中で訪ねていけば、画像が自分とバレるし、羽純の立場も悪くなるかもしれない。
「……」
 ベッドに転がり、またスマホを手にしてメッセージ欄をひらく。たった数分で何かが変わるわけではなく、さっきと同じ画面が表示されるばかりだ。
 建翔は何もできない自分に苛立ちながら、もう一度スマホをシーツに放り出した。


◇◇◇


「ああ、大丈夫。こっちは変わりない。母さん、あの画像は俺じゃないって何度も言ったろ。心配しないで。うん、仕事も変わりないし、何とかうまくやってるよ。――じゃあまた」
 通話を終えた後、建翔は耳元からスマホを離して画面を見ながらため息をついた。
 終業時刻もすぎた、会社の休憩所だった。
 廊下の片隅にある喫煙所隣のソファには、自分以外誰もいない。建翔は再びスマホを操作して、メッセージアプリをひらいてみた。
 新しいメッセージを確認するも、そこには何も届いていなかった。
 三日前に、相手に送った『どうなった?』という問いには既読しかついていない。しかしそれで、向こうも何とか生きてやっているのだと、それだけはわかった。
 羽純が建翔の家をでてから、二か月がすぎていた。
 季節はクリスマスになり街にはジングルベルが流れ、金赤緑の飾りつけが至る所にあふれている。夏の事件からは、五か月近くがたっていた。
 あの雨の日、羽純を実家に送り届けて以来、建翔はいちども本人と会っていなかった。ただ、メッセージだけは、二回のみスマホでやり取りをしていた。
 一度目は、羽純からの『こちらは時間がかかりそうだ。お前の方はどうだった?』という問いに、安心させるために『こっちは大丈夫だ』と答えていた。
 二度目も向こうからで、『当分連絡はしないようにしよう。目処がついたらこちらからしらせる』というメッセージに『わかった』と返した。それだけだ。
 もっと詳しい情報が欲しかったが、それ以上はきていないし、顔も見ていない。
 けれど、彼が応対できない理由は理解できた。向こうはネット経由のものは全て信用していないのだ。メッセージアプリの会話でさえどこから漏れるかわからない。だから怯えて必要以上の話をしてこない。
 怖いのは建翔も同じだった。しかもこちらは画像を自分と認めていない。状況が定まらないままふたりで会っているところを、万が一、誰かに写真にでも撮られたら。そんな不埒な輩が自分らの周囲にいるとは思えなかったが、ほとんどの人間がカメラを手に生きている昨今、何が起きてもおかしくはない。
 もしも建翔が事件に関係しているとバレたら、自分も一巻の終わりだ。なのでこの二か月は、会いたい気持ちをこらえて、連絡待ちの状態でいるしかなかった。
 考えていたらスマホがメッセージを受信した。かるい電子音と共に着信のしらせが画面にでる。羽純からだった。急いでひらくと、そこには『あと少しで終わる』とあった。
「……そうか」
 建翔は、ホッと息をついた。
「あと少しか」
 全てが片付けば、彼は自分の元にやってくるだろう。そのときにどうなったのか聞けばいい。会える日が待ち遠しかった。
 飲みかけだったコーヒーをあけて、紙コップをゴミ箱にすてる。立ちあがって肩のこりをほぐすため首を左右に傾げてから、自分のデスクへと戻った。
 挨拶をして通勤鞄を手に研究所をでる。電車をのり継ぎ、自宅へと向かう。そうしながら、自分達はこれからどうしたらいいのだろうかと考えた。
 羽純が筧らに対して、どんな対策を取るにしても、それはきっと長い道のりになるだろう。そして画像は消えることはない。普通に生きていくのは困難だ。
 だが、この先どんなことがあっても、自分だけは彼を守ってやりたい。
 一生を共にして、いつもそばにいてやりたい。その気持ちはもう同情などではなかった。罪悪感でもない。自分は羽純を必要としている。
 ――愛している。
 そういうことだった。彼のことを考えるだけで、胸に愛おしさがわいてくる。
 だから早く戻ってきて欲しい。今、心にあるのはその想いだけだった。
 最寄り駅で電車を降り、夜十時をすぎた通りを白い息をはきながら歩いていく。住宅街に入ると人通りはほぼなくなった。一軒家が連なるその先に建翔のマンションがある。エントランス前には季節の花が植栽された花壇があり、小さな常夜灯もひとつあった。
 何となく、その方向を見ながら歩いていて、膝丈に組まれたレンガの花壇の脇に、小さな影があることに気がついた。



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