リカバリーポルノ 26
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けたたましいベルの音が、耳元で鳴り響く。
目を覚ました建翔は、うんざりしながら枕の横においていたスマホを手探りした。手に取って、一日のやる気をすべて削ぎ落とすような大きな音を、ボタンを押して消す。
午前五時半。時間を確認してから、のろのろとベッドから起きあがった。
「……あ――。会社爆発しんねえかな…………」
今まで百回以上は呟いた朝のひと言をはいて、洗面所へと向かう。
顔を洗い髭を剃って、歯をみがいた。鏡には今年三十四歳になる寝ぼけまなこの男が映っている。髪は寝乱れ、日々の生活に若さを奪われつつある生気の欠けた姿が。
あの、夏の日の事件から五年の月日がたっていた。
建翔は水で髪を整えると、居間に戻りクローゼットをあけた。中から適当な服を取りだして着がえる。シャツにジーンズ、そしてジャンバー。朝食はとらないので、そのまま部屋をでた。
自宅マンションのエントランスを抜け、通りを駅に向かって歩きだす。
見あげれば、明けの明星が輝く濃紺の空は東側がわずかに白んでいた。二月の東京は寒い。鼻先を赤くし、白い息をはきながら駅に着くと始発にのりこんだ。これから二時間、電車に揺られて勤務先へと向かわねばならない。あいたシートに腰をおろし足を広げ、窓の外の蒼み始めた朝の景色をぼんやりと眺めた。
相変わらず、建翔は朝日化学に勤めている。ただし、職場は変わってしまった。移動命令を受けて今は埼玉工場の片隅、品質管理部で製品の管理を行っている。実質の左遷だった。
あの事件が起きたとき、建翔は会社に嘘をついた。画像の男は自分ではないと。その嘘は五年たった現在もバレてはいない。しかしネット上には、今も建翔が朝日化学の社員だという噂が残っている。会社側は多分、本人が認めないだけで限りなく黒に近いグレーであると判断したのだろう。だから厄介者を切り捨てる意味で、暗に辞めて欲しいと伝えるために移動させた。山田部長は数年で研究職に戻すと言ってくれたが、まだその気配はない。
辞めることもできた。こんな扱いを受けて続ける意味があるのかと。けれど、辞めたら負けになる。筧や、会社や、ネットの人間らに嘲笑われて終わりになる。
自分はこの社会に、まだ普通人としてしがみついていたかった。それは意地であったし、もうひとつ、未だ戻ってこない男の為でもあった。彼が自分の元に帰ってきたときに、生活を支えてやりたい。そのために金を稼ぎたかった。だからこの仕事を続けている。
ジャンバーのポケットに両手を突っこんで、顔をあげる。
筧に対する恨みは、あの後、二年間は消えなかった。当時は思いだすだけで憤りに胸が悪くなったものだった。筧の夢を何度も見て、その中で自分はバットを持って相手を血まみれになるまで殴りつけていた。朝起きて、現実に殴りにいってやろうかと思ったこともあった。実際にバットを買い、筧の周囲をウロウロと歩き回りもした。けれど、殴ってしまえば本当の終わりがくる。だから結局、黙って怒りを押し殺すしかなかった。
その状況が変わったのは、今から三年前だった。
建翔は、事件からずっと筧のSNSや写真をくまなく保存していた。自宅の場所や交友関係――奴は結婚して妻と子供もいた――そういった情報をためこみ、あいつが何か失敗したら公開してやろうと、ストーカーのように悔し紛れの暗い動機でそれらをかき集めることで憂さを晴らしていた。
そんなとき、とある人気男性モデルが覚せい剤使用現場の写真を週刊誌にスクープされた。怪しげなホテルで撮られた写真には、裸でベッドに寝そべるモデル、散らばった薬、そしてモデルの隣にいる男の手が写っていた。
建翔はネットに出回ったその写真を偶然見たとき、その手が筧のものであるとすぐにわかった。手首から先しか写っていなかったが、シャツの柄と、ほんのわずか見えた指のタトゥーが、奴のものと一致していたからだ。
それを発見したときは、心臓が破裂するかと思った。自分の望みが神様に通じたのかと、いや悪魔が微笑んだのかと、出回った偶然の一枚に感謝した。筧は自分のSNSはすぐに消してしまったが建翔は全て保存していた。建翔は彼に関する情報をどこかの掲示板に貼ってやろうと、フォルダにためていたデータを引っ張りだした。
警察の捜査が件のモデルに入れば、筧も逮捕されるかもしれない。しかし、公に発表されるのは名前と年齢ぐらいだろう。けれど、建翔がさらせば彼の個人情報はネットに永遠に残される。
徹夜で情報を漁って、詳細な検証画像まで作成して、朝方あとはクリックするだけで全てが公表されるところまできて、しかし、直前になって建翔は自分がしようとしていることが急に怖ろしくなった。
クリックひとつで、ひとりの人間の人生が変わってしまうこと。それを自分が左右するということ。
無責任な行為があまりにも簡単にできることに、苦しんだのは自分自身ではなかったのか。こんなことをすれば、自分は彼らと同類になってしまう。それは、自分や羽純の望むことであったのか――。
結局、建翔はデータをアップロードすることなく、ノートPCをとじた。何もしなかったことを、後悔はしなかった。むしろ、スッキリした気分になったものだった。
だが、翌日起きてみれば、筧の個人情報は建翔がためていたものそのままに、ネットに公開されていた。建翔は一瞬、寝ている間に自分が無意識にクリックしてしまったのかと怖くなった。
しかし違っていた。実行したのは、この社会のどこかに住む、同じように筧に恨みをもった誰かだった。
その後、筧は覚せい剤所持の現行犯で逮捕となった。逮捕後、彼がどうなったのかは知らない。ネットには日々新しい情報が提供され続けている。
多くの情報にのまれ、筧の存在は小さくなりやがては消えていった。
そして、羽純と自分の画像は、今もどこかで誰かの情報機器の画面に表示されている。きっとネットシステムが崩壊するか人類が滅亡しなければ、完全に消すことはできないのだろう。世界中に向けて、宇宙に向けて、自分の尻の穴は未来永劫発信されていくのだ。
「はは」
乾いた笑いがわきおこる。この世界のどれだけの人間が、自分の裸体をそうやって提供させられているのか。
羽純はもう、戻ってこないかもしれない。日本にいる限り、彼は好奇の目にさらされて生きていくしかなくなったのだから。
彼からはこの五年間、全く連絡がなかった。携帯も解約したのか、既読もつかなくなった。部屋をでていったあの日以来、ぱったりと消息が途絶えている。妹にも連絡はしていないらしい。
どこかで、幸せに暮らしてくれていればいいと思った。新しい恋人ができたなら、それでもいいと。
けれどもし、彼がまたつらい目にあって、自分のところに帰ってきたくなったとしたら。
そのときはしっかりと抱きとめてやりたかった。
建翔の自宅マンションの花壇に座っていた、あの、寂しげな姿が目に焼きついている。だから建翔は引っ越すことなく今の場所に住み続けている。ある日ひょっこり、羽純が帰国したとしても、すぐに抱きしめてやれるように。
二時間かけて埼玉工場につくと、建翔は更衣室で作業服に着がえた。
その横にある食堂に入り、始業時刻まで椅子に腰かけ缶コーヒーを飲みながらスマホを触る。それが日課だった。少しずつ社員が出社し始めて、わいわいがやがやうるさくなったその先で、テレビから朝の情報番組が流れている。何となく、気を引かれてそちらに目をやってみた。
いつもはそんなもの観もしないのに、ふと記憶に触れるものがあって、何だろうとぼんやり画面を見つめた。
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