リカバリーポルノ 27


 それは、どこか遠い南の国の、高台から見た草原の景色だった。
 褐色の土壌、散らばって生える木々、地面に少しだけ広がる草の緑。そして、その中心にある学校の四角い建物の屋根に塗られている塗料は――。
「……あれ、プレラじゃないっすか」
 建翔は、隣でスポーツ新聞を読んでいる初老の男性社員にたずねた。声をかけられた相手が、少し離れた場所にあるテレビ画面に目をやる。
「ああ? そうかい? 確かに似た色だけど。あれ、アフリカかどっかだろが。そんなとこまで出荷してねえだろ」
 社員はそう笑って、新聞にまた目を落とした。けれど、建翔はテレビから目が離せなくなった。
 どこか遠い国の建物の屋根に、プレラが塗られている。そんなことがあり得るだろうか。けれど、あの鮮やかなブルーは、確かにプレラのような気がする。我社の製品のモスグリーンとは違う、一越技研独特のブルーだ。
 画面では、日本のボランティア団体が、アフリカのブルキナファソという小国で、井戸を掘る慈善事業を行っている様子が紹介されていた。その背景に、ブルーの建物がいくつか映っている。
「ブルキナファソ」
 そんな国は聞いたこともない。けれど、あの屋根に塗られた塗料は。
 思い違いかもしれない。あまりの会いたさに、脳が勝手にそう思いこもうとしているだけかもしれない。テレビには日本人スタッフと現地の人間が映っているが、目当ての相手がいるわけでもない。けれど――。
 画面がスタジオに切りかわったときには、建翔は立ちあがってテレビの前まで移動して、驚く社員らを尻目に、番組を凝視していた。
 五年。五年待った。けれど相手からは何の連絡もなかった。彼はもう、この世界にはいないのかもしれない。その想像は、建翔をいつも苦しめた。
 だから、ほんの少しの足跡めいたものだけで、いてもたってもいられなくなった。
「有休下さい。取れるだけ全部」
 会社に申請をして、すぐに見知らぬ国にたつ準備を始めた。
 ダメ元でいってみよう。考えていても結果は得られない。大体、プレラがあんな場所にあるはずはない。しかしあれを塗ったのはどうしても彼だという気がしてならなかったのだ。それは直感みたいなものだった。
 ワクチン接種をしてビザを申請して、荷物をつめて成田を立ったのは、テレビを見てから二週間後のことだった。途中イスタンブールのアタチュルク国際空港でのり継いで、ブルキナファソの首都ワガドゥグに、ボストンバッグひとつでたどり着いたのは三十四時間後。気温は三月なのに三十五度を越えていた。九時間の時差にぼんやりする暇もなく、テレビで放送されていた村まで、地図片手にバスとタクシーをのりかえていった。間違いなら間違いでもいい。それならまた、彼を待つ日々を一から始めればいいだけのことだ。
 ブルキナファソの公用語はフランス語だった。建翔は英語は少しはできるがそれ以外は全くダメだ。本を見ながら村の名前を繰り返して、首都から百キロ離れた目的の場所にまで、やっとのことでたどり着いた。
 サハラ砂漠のはずれの小さな村。住人は黒人のみ。草原にまばらに建つ民家は粘土と藁でできた粗末なものだ。ここに、本当に羽純がいるのか。
 羊が散歩する村の中へ足を踏み入れると、赤い花模様のサリーに似た服を着た年配の女性と出会った。黒髪をきれいに編みこんでいる。
「Bonjour. Je cherche cette personne.(こんにちは。この人を探しています)」
 建翔はバッグから羽純の顔写真を印刷したものを取りだして、たどたどしく話しかけてみた。しかし女性は困った顔をしただけだった。どうやら田舎ではフランス語は通じないらしい。仕方なく、日本式に頭をさげてその場を離れた。
 村に入り、出会う人に順番に同じことをたずねていった。けれど誰も芳しい反応を返してくれなかった。皆、羽純を知らない様子だ。
 ここにきて建翔は急に不安になり始めた。もしかして、自分は間違っていたのだろうか。考えなしに先走りすぎたのか。めげずに何人にも声をかけてみたが、首を傾げるばかりで何も情報は得られなかった。
 建翔はペットボトルの水を煽りながら、乾いた土の道を歩き続けた。
 汗がだらだらと流れて、暑さに目がくらむ。気温は四十度を越えているだろう。研究所の恒温室で四十度に設定したものよりもずっと暑い。
 しばらく歩いていくと、テレビに映っていた学校にたどり着いた。この建物には、屋上に水色の防水塗料が塗られているはずだった。翼型に広がった平屋の校舎は、周囲に木が植えられ、国旗を掲揚するポールが入り口前に建っている。建物の脇には、壊れた机や椅子が積んであった。子供らが数人、校庭でサッカーをしていたので建翔は声をかけてみた。
 羽純の写真を見せて知らないかと聞くも、誰も知っている様子はない。
「…………」
 建翔はガックリとその場にへたりこんでしまった。
 長時間かけて移動してきた疲労が、急に重く肩にのしかかってくる。
 くるべきではなかったのか。ただの思いこみによる勘違いだったのか。
 羽純はここにはいなかったのか。
 もう一歩も進めないと落胆しつつ、自分の不甲斐なさに泣きそうになる。途方に暮れて地面に尻をつくと、絶望しながら周囲を見渡した。
 乾いた大地に、灼熱の太陽。風はなく、鳥の鳴き声もない。昼下がりの校庭に響き渡るのは、子供らの元気なかけ声だけだ。
 ふと、椅子や机の積まれた場所に見慣れたものを見つけて、建翔は目を眇めた。
 乱雑に重ねられた備品の陰に、一斗缶が数個あることに気がつく。
 その腹に貼られていたのは、――プレラのラベル。
「……まじか」
 建翔は立ちあがった。そして大声で叫んだ。
「羽純っ!」
 子供たちがビックリして散っていく。柵もない校庭に、日本語が響き渡った。
「羽純! いるのか! ここにいるのかっ! いるなら、返事をしてくれっ!」
 高い空に向かって、限りなく広がる草原に向かって、声の限りに名前を呼ぶ。
「羽純いいっ!」
 もう、ヤケクソだった。
「おおおいいっ、羽純いいいっ」
 建翔の雄叫びに、子供らが面白がって同じように「ハズミー」と声をあげる。合唱するように何度も繰り返していると、やがていつの間にか、校舎の屋根にひとりの男が姿を現した。
 緑色のランニングにカーキの半ズボン。青色のバンダナを巻いて髭面でサングラスをかけている。
 けれど、建翔はすぐにわかった。その華奢な身体は、自分が何度も舐めて触れたものだということを。
「羽純!」
 呼ばれた相手は、魔法にでもかかったかのようにフラフラとこちらによってきた。建物の端にきても気づかぬ様子で、あっという間に足を踏み外す。建翔はあわてて駆けよった。
「おい、お、落ちるっ」
 屋根から降ってくる相手を抱きとめて、ふたりで土の上に転がった。
「……っ、てっ。羽純っ、大丈夫か」
 男の顔からサングラスが外れて落ちる。その瞳は、ずっと探し求めていたものだった。
「……今仲?」
「おう、そうだ、俺だっ」
「な、何で? ここに?」
「何でって、お前がいつまでたっても戻ってこないから。俺のほうから探して会いにきたんだよっ」
 ポカンとなった相手の顔に、乾いた土がついている。プレラのブルーも。
 それは、ここの空の色と同じ、きれいな青色だった。



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