リカバリーポルノ 29


「気持ちいいな」
 冷たい井戸水で身体を洗えば、汗と汚れが流れてサッパリとする。風は熱いままだったが、長時間の移動で溜まってた疲れが楽になった。
「先に部屋にいっててくれ」
 タオルを渡されたので、受け取りながらうなずいた。
 部屋に戻って着がえていると、しばらくしてタオルを腰に巻いて灯油ランプを手にした羽純が戻ってきた。髭はきれいに剃られている。建翔の横にくると、机にランプをおいた。太陽は沈み夕闇が訪れている。羽純の顔は、橙色の灯りに照らされ淡く輝いていた。
「さっぱりした」
 髭のあった部分だけ肌が焼けていない。ずいぶん長い間伸ばしていたようだった。
「懐かしい顔だ」
 抱きしめようとしたら、ちょっと待て、というように胸を押し返された。
「何だ?」
 拒否されて戸惑う。羽純は困り顔で笑った。
「その前に、聞かせてくれ。――どうして、こんな地の果てまで、俺を探して会いにきてくれたのか」
「え?」
 建翔は目を見ひらいた。
「どうしてって、そりゃあ、会いたかったからに決まってるだろ」
 建翔にしてみればわかり切ったことをたずねられる。
「俺は、今仲はもう俺のことなんか忘れて、結婚して子供ぐらいいるだろうって思ってたのに」
「……何いってんだ。この五年間、俺がどれだけ、お前に会いたかったか。毎日のように心配してたか。どこでどうしてるのか、元気なのか、生きてるのかって」
 建翔の言葉に、羽純の瞳が揺れる。
 それでわかった。羽純は『少しの間だけ海外にいく』と言って旅立ったが、本当はそんなつもりではなかったのだ。
 本心では、永遠に建翔から去るつもりでいたのだ。
「日本に帰ってこい」
 強い口調で言う。
「今仲」
「それで、一緒に暮らそう。家も買う。仕事を続けてきたのもお前のためなんだ。こんな地の果てで、もし病気や怪我で倒れたらどうする。俺は心配だ。そばにいて欲しい」
 羽純の両腕を掴んで揺さぶる。すると困惑した顔になって、首をゆるく振りながら建翔から身を離した。
「……今仲。それは無理だ」
「え? なんでだよ」 
「……俺、人間が怖いんだよ。……特に、日本人が」
「えっ」
 羽純は俯いて、苦く笑いながら言った。
「だから、あそこじゃ、まともに息も吸えない。戻ることを考えただけで、苦しくなる」
「……」
 その言葉に思いだした。羽純は子供のころ、いじめにもあっていたことを。事件がトラウマを増幅してしまい対人恐怖症になったのか。
「だったら」
 逃げようとした身体を引きよせる。
「だったら、俺がここにくる。会社も辞める。お前が世界中を回るってんなら、俺も一緒についていく」
 日本での仕事だってもう、考えてみれば未練なんてない。どうせ工場の片隅にいるだけだ。羽純のため、金のために働き続けているにすぎない。
「今仲、ダメだ、それは」
 羽純が大きく首を振った。
「お前は辞めちゃいけない。日本に残れるのならそうしろよ。それで、お前はちゃんと平和に暮らして幸せになるんだ。でなきゃ、どうして俺が――」
 言葉途中で、ハッと息をのむ。目を見ひらいて、それから唇を引きむすんだ。
「羽純」
 大きな瞳でこちらを見る姿に、建翔は頭を殴られたような気がした。そして、――唐突に理解した。
 どうして羽純が告訴しなかったのか。警察に被害届すらださなかったのか。筧らに何もせず、画像の削除要請だけをしたのか。
 それは、全て、建翔の嘘を守るためだったのだ。
 捜査が入れば、必ず建翔の情報にもたどりつく。事情を聴くために警察が建翔の元にやってくるかもしれない。それが外部にもれたら――。羽純は建翔を今いる世界に残すため、そのためにできることだけをしてそこを去ったのだ。関わりさえ断つようにして。
「お前……」
 力づくで抱きよせ、腕の中に取りこんだ。
「何で、そんな」
 華奢な身体を抱きしめて、混乱した頭で問い返す。
「俺なんかのために、どうして」
「今仲」
 胸の中で、相手が言った。
「お前が幸せになってくれることが、俺の全てだったから」
 明かされた告白に、全身に鳥肌が立つ。それほどまでに、自分のことを――。
「お前は馬鹿だ」
「うん。わかってる」
 建翔は羽純の髪に、頬を押しつけた。歯を喰いしばり、自分の無力さと相手の強さに、泣きそうになるのをこらえた。
「愛してる」
 そう呟いたのは、自分の中にそれしかなかったからだ。羽純に対して、もうその感情しかない。
「お前のことを愛してる」
「……今仲」
 呆然とした声が聞こえてくる。
 強くきつく抱きしめて、それからどうしようもないくらいにあふれる感情だけで囁いた。
「お前が幸せになることが、俺の全てだ」



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