リカバリーポルノ 30
◇◇◇
小さなランプの炎が、揺れながら部屋を照らしている。
蚊帳の中の粗末なベッドに、建翔は羽純と共に腰かけていた。
「今仲。何度も言うが、俺はもう、普通の人間みたいには暮らせないんだよ」
羽純は膝に肘をついて、前屈みになってこぼした。
「人の少ないところをさがして、なるべく田舎で、ネット環境も整っていないところで、それでも定住できるわけじゃない。自分にあわなかったらまた放浪する。それにお前を巻きこむわけにはいかない。……日本に帰れよ。やっぱりだめだ。お前は、あっちの世界で会社に通い、結婚して、家庭を持つんだ。子供を作って、親になって、普通に暮らすべきなんだ」
手のひらでひたいを押さえながら、うめくように言う。『あっちの世界』という言い方に、胸が痛んだ。羽純は本当にもう、元の生活には戻れないのだ。
けれどだからといって、彼をおいて日本に戻る気にはなれなかった。もちろん、別れるつもりもない。
「それが望みか」
怒りというよりも、やるせなさを覚えながら問い返す。
「……」
羽純はうなだれたまま答えなかった。
しばし目をつむって、自分の中の痛みを押し殺すようにする。
そして唐突に口をひらいた。
「お前はそれができるだろう」
ゲイではないのだから、と言葉にせず伝えてくる。
建翔は横で背を丸める男を見つめた。
確かに自分は、ゲイではなかった。今だって女性と結婚しようと思えばできるかもしれない。しかし、そうすることに一体何の意味があるのか。
「お前の言うとおり、俺は以前はノーマルだった。男に興味はなかったよ。けどお前と出会って変わったんだ。それは切羽つまった状態でセックスしまくったせいかもしれないし、元々、俺にはそういう要素があって、それが目覚めたのかもしれない。けれど、それを今更自分に問いかけても意味はない。状況が変わるわけじゃないし、もう昔に戻ることはできないんだ」
何もかも。戻ることはできない。日本に帰って偽りの生活を営もうとも、変化した心は引き返せない。
「お前はそれでいいのか。俺が、お前の知らない女と結婚し、家庭を持って子供を育て、二度と会うことができなくなっても」
羽純の細い肩が震える。
「お前のことを考えながら、どこでどうしているのかと心配しながら、毎日をすごして、手放したことを後悔して、死に際にはお前がそばにいないことを悲しんで。俺がそんな人生を送ってもなんとも思わないのか」
この男が世界中をひとりで放浪する間、自分は日本であの会社に通い、誰かと暮らし、そして年老いていつか死ぬという、その人生に、幸せという潤いがあるのだろうか。
建翔の言葉を、羽純はある種の感慨を持って聞いているようだった。
きっと、建翔がそれほどの想いを自分に持っているとは、考えもしなかったのだろう。肩の震えがとまり、建翔の声に聞き入っている。
「お前は、それでいい?」
再度問う。相手は迷いを浮かべた表情で、唇をかんでいた。
「俺は嫌だよ。そんな人生」
心からの言葉は、静かに口からもれて出た。まるで呼吸の一部のように。
「羽純」
答えを待って、呼びかける。するともう言い返しはしなくなった。
「お前のいない日本に俺の幸せはないよ。お前が安寧に暮らせる場所を探す旅をするというのなら、俺も一緒にいきたい」
優しく、けれど強くはっきりと言えば、羽純は眉間に皺をよせ深く考えこんだ。
五年前、羽純が建翔の部屋を後にしたとき、彼の中には、強い決意があったのだろう。それを支えに今までひとりで暮らしてきた。
しかし、建翔の告白で、胸中に今まで考えもしなかった逡巡が生じている様子だった。
「五年間、待っていた。連絡を」
暗いオレンジ色の明かりだけが、ふたりを照らしている。熱のこもった部屋の中、互いの肌には汗がにじんでいた。
「お前はどうだった? 俺に会いたくはなかったのか。もう忘れてた?」
「会いたいに決まってた」
即答されて、嬉しさに口元がほころぶ。
本心を思わず言ってしまったことに、彼はわずかに動揺した。けれど、建翔はその心の隙間にぐいと言葉をねじこませた。
「だったら、もうひとりでどこかにいったりしないでくれよ」
「……」
「俺はお前のそばにいたい」
そう言うと、やっと顔をあげてきた。
「……今仲」
観念したように、力なくうなずく。
「俺だって……。本当は、そう、思ってた……」
「知ってる」
羽純は両手で顔をおおって肩を揺らした。
それは泣いているのか喜んでいるのか、建翔には判断がつきかねた。だから相手の両手首をつかんで、優しく顔から引き剥がした。
羽純は信じられないというように口元を歪めて、泣いていた。
「ずっと、知ってたよ」
首をかしげて顔をのぞきこむと、見られるのが嫌なのか、つと瞳をそらす。
「ごめんな」
掴んだ手に力をいれて今までのことを全て謝罪する。たった一言に、万感の思いをこめて。
「……」
羽純は小さく首を振った。
そして明かりを反射したきらめく瞳をあげてくる。橙色の炎を灯した目に、もう迷いはなかった。
建翔が首をかたむけて唇を近づければ、おずおずと口をひらく。受け入れてくれる証に、舌がさしだされたので、それに舌先を絡ませた。
相手の舌を、そっとなでて押して、時間をかけて奥までくまなく触れていく。
「おまえに触れたかった」
キスしたかった。こうやって。何度も、ひとりの部屋で夢に見た。
「……俺だって」
キスの合間に、羽純が本心をもらす。やっと素直になってきた相手に、建翔も微笑がもれた。
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