リカバリーポルノ 33
◇◇◇
羽純と別れて日本に帰ると、建翔はすぐに旅立つ準備を始めた。
まず会社に辞表を提出し、受理されたのち、担当していた仕事を後任に引き継がせた。
それから時間を見つけて日野の研究所まで出向き、山田部長に退職の挨拶をして、今まで世話になった礼を伝えた。山田は詳しいことはきかず、ただ研究職に戻してやれなかったことと、今までの苦労をねぎらった。建翔は仕事に未練はなかったので、笑顔でそれに答えて元の上司と別れた。
入社したときは人並みに上昇志向もあったのだが、もっと大切なものができた。それを守るために人生の進路変更をするのだと思えば、未練はひとかけらもなかった。今は新たな航路しか見えていない。
長年勤めた会社を滞りなく退社した後は、住んでいたマンションを引き払うために荷物の整理をした。家具も日用品も細かい雑貨もすべて処分し、最終的にスーツケースひとつにまとめた荷物をそれでもまだ多いと思い、スポーツバッグ一個にまで小さくする。フットワークはかるいほうがいいだろう。
貯金はそれなりにあったので、当分は心配ないと思われた。羽純にどこまでも付き合って、ふたりだけの楽園を探しにいく。
日本を離れる前に、両親にも会って話をしておかねばならないと考え、マンションの鍵を不動産屋に返しにいった後、建翔はバッグ片手に、越前行きの急行列車に乗った。
久しぶりの帰省は前もっての連絡もなく突然だったので、両親も、建翔のただひとりの姉である由香子も驚いた。
「仕事は辞めた。海外にいく」
と、居間のテーブルについてすぐに伝えれば、家族はさらに目を丸くした。
「どうしたの急に」
五歳になる息子を抱えた由香子が最初にきいてくる。
「仕事の他にやりたいことができた。だから、日本を離れる」
詳細を語るつもりはなかったので端的に告げると、両親と姉はしずんだ表情になった。
元々、建翔は両親に自分のことをべらべらしゃべる性格ではなかったから、親にしても息子の頭の中は推察するしかなかったのだろう。父親は押し黙り、母親は心配げな顔をした。
「やりたいことって何なの?」
姉がまたたずねてくる。
「大事な人ができたんだ。その人を幸せにするために、ここは離れる」
「なら、その人と結婚するの? その人の国で暮らすの?」
どうやら外国人の彼女でもできたのだと勘違いしたらしい。
「いや。結婚はしない。相手は日本人だけど、事情があって日本で暮らせない人なんだ。だから、人目の少ない国を探してそこでふたりで生活する」
建翔の言葉に、三人の表情が変わる。
『事情があって日本では暮らせない人と、人目の少ない国を探して移住する』という言葉から、五年前の事件のことを思い出したのかもしれない。そして建翔の口ぶりから、大事な人というのは、一緒に映像に映っていた男ではないかと想像したのかもしれない。
建翔は家族に、あの映像は自分ではないと言い続けてきた。けれど、両親や姉はやはり疑っていたのだ。そして三人の耳にも心ない言葉は届いていた。
母親が建翔と相手の身を心配するようにして問う。
「その相手の方は、それで納得していらっしゃるの? 私たちはその人に会わせてもらえるの? あなたが仕事を続けながら支えることはできないの?」
遠慮がちに、けれど心配げな様子でたずねてくる。それで、建翔もできるだけのことは伝えておかねばならないと考え直した。
「ごめん。勝手に日本を離れることを決めたのは悪かったと思ってる。けど迂闊に人に相談できる内容じゃなかったんだ。……俺の、その生涯を共にしたいと思ってる人は、五年前にとある事件に巻きこまれて、心に大きな傷を負ったままの状態で今も苦しんでいる。その人は俺にとって、何にも代えがたい大事なパートナーで、だから全てを投げ打ってでも支えになってやりたいと思ってるんだ」
建翔が自分の気持ちを素直に伝えると、両親も姉も真剣な表情で話に耳を傾けてくる。
自分の両親に、羽純のことを紹介する了承は、まだ羽純本人には取っていなかったから、全てを打ち明けることはできなかったが、自分の思いだけは明らかにした。
「それから、相手はそういう生き方を納得してるよ。俺も、あいつのためにそうしてやりたいと思ってる。それで、仕事はまた新たに見つける。いつか落ち着いたら、日本じゃない場所で、紹介したいとも考えてる」
決めていたことをはっきりと口にすれば、父親は「そうか」とだけ言い、母親は仕方なさそうに、それでも息子が決めたことだからと頷いた。
「ごめん。親不孝で」
頭を下げて、勝手な行動をわびる。
母は「しょうがないわね。こういうところは男の子やから」と言って、隣に座る姉に寂しそうな笑顔を向けた。
「あなたの好きにしなさい。あなたの人生なんだから。後悔のないように」
建翔に向かって優しく言うと、「今日はとまっていくんでしょ」と話題を変えて明るく立ち上がった。台所へ消える母を見ていたら、隣の父がぼそりと言う。
「万一、困ったことがあれば、いつでも連絡しろ。待っとる」
いつも口数の少ない父親の、精一杯の言葉に、建翔は「うん。……ありがとう」と息子の顔で頷いた。
その日は実家に泊まり、翌朝、家族に別れを告げて家を出る。
名残を惜しむ両親や姉に挨拶をして、駅へと歩いていると、後ろから由香子が追いかけてきた。
「ねえ、まって」
足早にかけてきて、息を継ぎながら横に立つ。
「ね。相手の人って、もしかして、…………その」
言葉を途中でつまらせた姉に、建翔は静かに頷いた。その想像は当たっていると、無言で伝えるように。
「……そっか」
建翔の様子を見て、事情を悟った由香子も頷く。
自分の弟が五年前に事件に巻きこまれていたこと、そうして選んだパートナーは同性であること。建翔が思う以上に、衝撃はきっと大きいのだろう。けれど彼女はそれらを静かに自分の中に押さえこんだ。
「……じゃあ、もう日本には戻らないの?」
「どうかな」
答えようがなかったので、小さく肩をすくめた。
「いつか、家に来てほしいんだけど、……ふたりで」
姉の願いに、建翔は曖昧に口の端をあげるしかなかった。
「無理なら、会いに行くわ。母さんたちつれて」
「うん。父さんと母さんを頼むよ。仕送りは今まで通り続けるからさ」
「……そう」
「手紙も書くよ」
「わかった」
「じゃあ、元気で」
「あんたもね」
一歩踏み出した建翔に、後ろから姉が言った。
「父さんたちはあたしが見てるから。あんたは自分と、その人の幸せを、考えてあげて」
その言葉に安堵して、建翔は彼女に微笑みながら手を振った。
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