リカバリーポルノ 34


 最寄り駅から特急列車に乗りこんで、関西国際空港まで移動する。もう訪れることはないであろう故郷の景色を窓の外に眺めながら、建翔は一通の絵はがきをバッグから取り出した。
 それには、オアシスの写真に『4月7日、ワガドゥグー空港、二階レストランで待つ』という一文が添えられていた。
 羽純は携帯電話を持っていない。そして、建翔も数日前に自分の携帯を解約している。ふたりの連絡手段は今や手紙だけとなっていた。
 空港から飛行機に乗り換えて、ブルキナファソへと向かう。
 機内で長い時間をすごしながら、建翔は約束の場所に本人がいなかったらどうしたらいいだろうかと考えた。とりあえず向こうに着いたら、すぐにはがきに書かれた場所へ行ってみよう。それで会えなかったらまたあの村に行こう。それでも行き違いなどになってしまったらどうしようか――。
 昔の人はこんな貧素な連絡手段だけでよく遠い場所の人間と待ち合わせできたものだと感心する思いだった。
 三十数時間かけて、再び灼熱の地に降り立つ。
 建翔はこぢんまりとした空港の税関を抜けて、二階のレストランへと足早に向かった。
 約束の時刻の二十分前。時間まで待って羽純が来なかったら店員に伝言して村へ行って、と頭の中で計画を立てつつ、階段を駆けあがる。
 レストランの扉を抜けると、そこはラウンジ風の、広いスペースになっていた。ソファとテーブルが並んだ店内を見渡せば、窓際にあるふたりがけソファにサングラスをかけてキャップをかぶった男がひとり、人待ち顔で座っているのが目にとまる。羽純だった。
 あの、五年前に建翔のマンションの花壇に腰かけていたときと全く同じ様子で、少しの不安をにじませて、心許なげにソファに浅く座っている。
 きっと相手も自分と同じ気持ちだったのだろう。建翔が時間通りにちゃんとやってくるか。事故や病気に遭遇して、来られなくなるのではないかと、――いや違う。
 彼の不安はそうではない。
 羽純の表情にはもっと異なるものがあった。
 それは、万にひとつの可能性であっても、もしかしたら日本に戻った建翔の事情が変わって、本人が来ることなく自分は永遠にここに捨て置かれるのではないかと、そうなっても心を強く持って生きていかなきゃならないと自身に強く言い聞かせている顔だった。
「羽純!」
 入り口から声をかければ、ハッと顔をあげてくる。建翔を確認して、緊張にいからせていた肩をゆっくりと落としていった。
「……今仲」
 口元をほころばせて、安堵に笑う顔に走りよった。 
「やあ。時間より早かったな」
「ああ、今着いたところだ」
 建翔は羽純の隣に腰かけた。
「だいぶ待ったのか?」
 抱きしめたい衝動に駆られつつ、それを抑えて問いかける。羽純はリラックスした表情に変わって答えてきた。
「いや。そうでもない」
 建翔をマジマジと眺めて、それから少し恥ずかしそうに瞳をそらす。久しぶりの再会に、気分が高揚してしまうのは自分だけではないようだった。
「住んでいた医者の家はどうした? もうあそこには戻らないんだろう?」
「ああ。引き払ってきたよ」
「じゃあ、これからどこへ行くんだ?」   
 建翔は以前手紙で、これからの行き先はお前が決めてくれと伝えていた。その返事はもらっていなかったが、手際のよい彼はちゃんと準備をしてくれていたらしい。
「うん。もう切符は買ってあるんだ」
 そう言うと、かたわらにおいてあったデイバッグを手元に引きよせた。使い古したナイロン製バッグのファスナーをあけて中を探る。
 建翔はそれを見ていて、ふと、サイドポケット近くに縛りつけてある布きれに目がいった。
 破れたハンカチのようなはぎれが、ストラップに固結びされている。色あせた綿の紺地に、小さな幾何学模様。どこかで見たことのある柄だなと考えて、「あ」と声が出た。
「おい、これ。俺のボクサーパンツじゃねえのか?」
 思わずもらした声に、羽純が「え」と答えた。
「これ、ここに結んである布きれ。これ、俺のパンツだろ」
「……あ」
 羽純は目を丸くして、それからちょっと困った顔になった。
「ああ、うん。そう。……お前のだよ」
「なんでこんなもんがここに?」
 羽純が決まり悪そうに目をそらす。
「これ、五年前にお前んとこのマンションを出たときに、借りた下着なんだよ。旅の間、ずっと使ってたんだ。けど、そのうち穴があいて破れちゃって。でも手放せなくて。……だから、布だけこうやって、しばって残しておいたんだ」
「まじかよ」
 建翔はかつての自分の下着を見つめた。
「お前、俺のことは拒否したくせに、俺の下着は旅に同行させてたのか」
 呆れ声でたずねると、相手もどう答えていいのかわからないと言った顔になる。その困惑の内に、建翔への消えることのない思慕を読み取って、こっちも切なくなってしまった。
「……なあ」
 建翔はずっと羽純に言わずにいた心のわだかまりを思い出し、それをどうしても、旅立ちの前に伝えたくなった。彼のこれだけの気持ちを知って、自分はまだ隠し通している思いがあるのは、卑怯な気がしてきたからだ。
 建翔の呼びかけに、羽純がどうしたのかと目を向けてくる。
「俺さ、お前に、ずっと隠してたことがあるんだよ」
「え?」
 建翔は破れた布きれを指先でさすった。
「俺は、自分の、身勝手な部分をずっとお前に見せずにいた。俺は、ホントはお前が思うほど、いい奴なんかじゃなかった。卑怯で最低で身勝手な人間だったんだよ」
 いきなり始めた告白に、羽純が目を見ひらく。
「初めてお前に出会ったときから、お前は俺のことを優しくて親切な奴だと思って、好きになってくれたって言ってたけど、本当はそんなんじゃなかった。俺はお前を、友人としてじゃなくてただ便利な奴として利用しようとしてたんだ」
 昔の自分を心の中から取りだして、相手にさらけ出すのには勇気がいった。
 けれど、そうしなければ気持ちが収まらなかった。もう隠し事はしたくない。
「すまん。今更だよな。こんなこと言って」
 きっとこいつは傷つくだろう。もしかしたら嫌われるかもしれない。だが自業自得だ。そう思いながらため息をつく。
 しかし、羽純は建翔の告白を聞いても、表情を変えず、ただ瞳を瞬かせただけだった。



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