リカバリーポルノ 最終話


「今仲」
 落ち着いた声で呼ばれる。
「俺、……わかってたよ」
「え」
 目を見ひらくと、淡く微笑まれた。
「わかってた。それぐらい。最初から。俺だってそれほど馬鹿じゃない」
「え……そうなのか? けど、おまえ、そんなこと、一言も……」
 羽純はわかっている素振りを、みじんも見せたことはなかったのに。
「うん。俺もそれを隠してたし」
「どうして?」
「嫌われたくなかったから」
「……」
「お前に離れられたくなかった。便利な奴でも、パシリでも何でもよかった。あの頃は、お前の役に立つのなら、頼りにしてくれるのならそれだけで満足だった。お前が他の便利な奴を見つけて、そっちにいってしまわないように、必死に何でもしようとしてた」
「……」
 ふ、と羽純が笑う。その若干頼りなげな笑い方は、大学時代、建翔をいつも見つめていたあの黒い瞳を思い起こさせた。
 ただひとつのよりどころだった相手に捨てられることを、心底怖れていた儚げな眼差しを。
「そうか」
 どう言葉を継いでいいのかわからない。十数年間の嘘は、簡単な謝罪ではすまされない。
「でも、他にもわかってたことがある」
「え?」
 建翔が問い返す。
「お前は気づいてなかったかもしれないけど、今仲はやっぱり優しかったよ」
 目元を細めて、昔を懐かしむように笑った。
「今も優しい。そこは変わってない」
 穏やかな声音に、強い優しさがこめられている。相手が口の端をあげると、建翔も思わず誘われて笑みを深くした。
「……そうか」
 羽純は自分よりずっと、人の機微のわかる聡い奴だったらしい。
 そして自分のような無神経で鈍感な男を優しいと評して、過去の過ちを許してくれた相手に、これから先は一生裏切ることなく守っていかなければならないと改めて決意を強くする。  
「行き先は、決めてある?」
 建翔が問うと、思い出したかのように羽純は手にしていた航空券を手渡してきた。
 そこに印刷されている地名を見て、建翔は頷いた。
「いいな」
「そう。ならよかった」
 時計を確認して、ふたりで立ちあがる。搭乗時間まであと一時間ほどだったので、税関を通るためにレストランを後にした。
 階段を降りていくと、途中の踊り場に壁一面に広がる大きな窓があった。そこから滑走路と、後ろに広がる市街地が見渡せる。今日は天気がよく、空は青く晴れわたり大地は赤く乾いていた。太陽は高く輝き、自分たちはこれからその近くまでのぼっていく。
 横にいる羽純も外の景色を見ていた。
「お前が、俺の隣にいてくれるのが、いまだに信じられない」
 大地と空と、その先を見つめるようにしてしみじみと呟く。
 サングラスの内側で、まつげが頬に濃い影を落としていた。太陽に眇めた目には、遠いどこかが映っているようだった。
「今仲」
「うん?」
 まるで夢見るように、今まで何度も聞いた台詞を、旅立ちの前にまた繰り返す。 
「……俺は、お前だけが欲しかった。お前だけが望みだった。昔から、それ以外に欲しいものなんて何もなかった」
 こちらを向いた笑顔には、建翔への想いがあふれていた。
「そうか」
 建翔は手を伸ばし、守るように彼の背にあてた。
 ふと見れば、階段脇に黒人の少年が座ってスマホを手にゲームをしていた。忙しなく動く手元を眺めながら、あれを手にすることは二度とないだろうなと考えた。
 五年前の事件から、ずいぶんと遠いところまで来てしまった。
 自分たちはもう、昔の社会に戻ることはない。
 安寧だった日本の暮らしを捨てて、どこともわからぬ場所を放浪する人生を、人は不幸と呼ぶかもしれない。運が悪かったと、馬鹿なことをしたと笑うかもしれない。
 けれど自分たちは、それさえも届かぬ場所へと移動する。
 世界を網羅する情報の波の、その存在から完全に逃げ出すことは不可能だろう。網の目の隙間を縫いつつ、誰もふたりを知らず、誰の目も気にしなくていい土地を探していくしかない。羽純がネットに怯えることなく心安らかに暮らせる安住の地を求めて、当分はさすらうことになる。
 それは北の果ての雪深い森かもしれないし、南の大洋の孤島かもしれない。東の山脈の高地にあるのかもしれないし、西の砂漠のオアシスにかくれているのかもしれない。
 しかしどこであろうと、そこが楽園になるのなら生きていける。
 自分たちは今まで住んでいた場所を捨てて、新たな地へと移り住む。身につけていたしがらみを脱いで、何もまとわず生きていく。  
 けれど、建翔はそれを悲観してはいなかった。
 世界は広く、いつもふたりでいれば、新天地は必ず見つけることができると信じていたから。
 そしていつか、新たな世界が、自分たちを受け入れてくれるのなら。
 平穏な未来を、手にすることができたなら――。

 そのとき、きっと世界はふたりだけのものになるだろう。



                               【終】



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