彩風に、たかく翼ひろげて 32


「大丈夫か」
 隼珠も疲れた顔をしていた。だから心配してくれたのか。
「宿所は……見つかりましたか?」
 濡れた唇を押し仕舞うようにして問う。
「まだひとつも見つかっていない」
「そんな……」
 隼珠は、迅鷹の半纏をギュッと握った。
「心配するな。白城はそう簡単に潰れたりしねえ」
 言葉にすることで、迅鷹も力を得たがっているようだった。
「お前から元気をもらったからな。もう少し頑張れそうだ」
 そう言うと、身を離して何事もなかったかのように廊下に戻った。
「今夜は按摩は無理だろう。肩を冷やすな」
「へい」
 迅鷹は口の端をかるくあげてから、子分らを追いかけていった。忙しいさ中だろうに、こんなときまで、隼珠の身体を気遣ってくれる優しさに胸が熱くなる。
 自分もできるだけのことをしなきゃならない。
隼珠は湯飲みを洗い桶に入れて帳場へと戻った。
「すいません、お客さんがお見えです」
 亮への伝言を書いていたら、女中が顔をだした。
「客?」
 問い返した隼珠に、女中が「へえ」と返事をする。
「隼珠さんを訪ねておいでです。伊助親分さんのところからの使いだそうで」
「伊助親分?」
 いぶかしみつつ玄関に向かうと、そこには昔なじみの伊助の子分がいた。
「よう隼珠。久しぶりやな」
 隼珠は怪訝な顔でお辞儀をした。
「伊助親分が、おめえに急の用事があるそうや。すぐに、呼んで来いって言われた」
 その子分は、用事の内容は聞いていないようだった。忙しかった隼珠は断りたかったが、どうしてもと言われ、仕方なく女中に出ると告げて屋敷を後にした。
 鶴伏の大通りを、使いの者と一緒に早足で歩いていく。
「伊助親分は、今どこにいるんすか?」
「鶴伏のはずれの宿に、昨夜から泊ってる」
 久師川を少し遡ったところに広い荷揚げ場がある。船がたくさんもやわれ、多くの人が行き来する川辺の近くには宿が集まっていた。二十分ほど歩いて、そのうちの一軒にたどり着く。宿に入ると、奥の部屋へ連れていかれた。
「中で親分が待っていらっしゃる」
 部屋の前の廊下で子分はそう言うと、自分は入らないらしく隼珠に行けと身振りで示した。
「隼珠です」
 外から声をかけると「おう、来たか、入れ」と返事がある。隼珠は襖をひらいて部屋に入った。
 そこには床の間を背にあぐらをかく伊助がいた。煙草盆を近くにおいて一服している。そして驚いたことに、部屋にはもうひとり洋装の男――沢口がいた。
「久しぶりやな。隼珠。達者で暮らしとったか」
「へ、へえ」
 隼珠は入り口近くで正座をし、頭をさげた。
「ご無沙汰しておりやす。親分さんもお元気そうで……」
「まあ、挨拶はええわ。そっちも今は忙しそうやからな」
「へえ」
 隼珠は頭をさげたまま答えた。
「白城の親分さんとこは、しっちゃかめっちゃかみたいやな」
「へ、へえ」
「現場はわしもさっき見に行ったが、焼け落ちてなんも残っとらん状態やったな。あれで、明日からの工事はどうするね。人足らも大弱りで、どうにも動けんで困っとったぞ」
「へい」
 現場の混乱ぶりが目に浮かぶ。今頃、岸はどうなっているのだろう。
「宿所の代わりは見つかったのか」
「いえ。まだでやす」
「見つかりそうかい。もう昼すぎやぞ」
「わかりやせん」
 伊助はそこでキセルをくわえると、スウッと吸ってから大きく吐いた。白城の混乱ぶりとは大違いの余裕のある仕草だった。隼珠はそれに不快感を覚えた。
 迅鷹は今も、宿所を探して走り回っているに違いない。白城組が困っているこのときに、のんびりしている伊助と、そうしてなぜか分からないがここにいる沢口に、隼珠は言いようのない不安めいたものを感じた。
「そりゃあ困ったことになったな」
「……へい」
 伊助は急用があると言って隼珠をここに呼んだはずだ。用はなんなのか、早く聞いて、屋敷に戻りたい。
「宿所が見つからんまま、夜になったらどうなるやろな」
「……」
「五十人からの人足がおるやろう。まだまだ増えると聞いたがな。そいつらが、この寒空のもとで寝るところもないとなると、どうなるやろか」
 また一口吸う。ゆっくりと煙を吐く。
「暴動が起きるやろな」
 素っ気ない言い方だった。けれど隼珠の中で、その想像は悪寒をもよおわせた。
 待たされ続けて焦れた博徒らが、痺れを切らしたらどうなるのか。白城の屋敷に押しかける奴も出るに違いない。相手は無頼の博徒連中だ。屋敷で暴れるかもしれないし、街に繰りだして憂さ晴らしをする輩も出るかもしれない。そうなったらもう収拾がつかない。
「それでやな」
 伊助は、煙草盆に、ポン、と吸殻を落とした。
「ここにいらっしゃる沢口さんや」
 そこまで喋って初めて、伊助は沢口に話題を移した。隼珠に顔をあげるように言う。仕方なく、隼珠は身を起こして姿勢を正した。
「沢口さんとこはな、現場から五町ほど上流の場所に、新しく工場を建てなすった。そのことは知っとるな」
「へぇ」
「製糸工場や。だから大きいぞ。しかもまだ、器械を入れていない状態らしい。そうですよな」
 沢口に話を振る。横にいた巨漢の沢口が、あごの肉を震わせてうなずいた。
「ええ。まだ釜はいれておりません。だだっ広いままです。なので百人ぐらいかるく収容できますよ。繭用の倉庫もありますからね。そちらも一階にかまどを設置すれば食堂に使えます。必要ならば事務所も使ってもらって構いませんが」
「えっ」
 隼珠は目をむいた。
「堤防工事が完成しなければ、うちの工場も不安ですからね。新しく飯場を建てるまで、工場を開放するのは構わないですよ。まあそうすりゃあこっちの経営計画が大幅に遅れて、損は出ますけれどねえ。しかし白城の親分さんが困ってらっしゃるのなら、こっちとしても黙って見すごすわけにはまいりません。あの方に貸しを作っておくのも損にはならないでしょう。ここらでは一番の親分さんですから。大いに協力させていただきますよ。しかも、お望みならば、無償で」
 隼珠はさらに目を大きく見ひらいた。
「……無償で」
「さすが社長さん、太っ腹だ」
 伊助が笑う。
「そ、それは本当ですか」
 隼珠が身をのりだすと、沢口は鷹揚にうなずいた。
「本当ですとも」
 そんな有難い話はない。すぐにでも迅鷹に知らせなければ。
 しかしそこで、隼珠は疑問を抱いた。
 こんなにも重要な話を、なぜ自分に話すのか。これは白城の総領である迅鷹に話すべき内容ではないのか。



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