彩風に、たかく翼ひろげて 33
隼珠が不審そうな表情になったのに、沢口が嬉しげに言った。
「けれど、それには条件があります」
笑みは崩さず、だが目つきは鋭く変えて、沢口は上機嫌で続けた。
「工場を貸しだす代わりに、隼珠さんに私のところに来てもらいたい」
「……え」
予想外の言葉に戸惑うと、沢口が口調を変えて言う。
「あんたを、妾として囲いたいと言ってるんだよ」
嬉しくてしょうがないという口ぶりだった。
「お、俺を、ですか……?」
隼珠は伊助と沢口の間で目をさまよわせた。
「あんたが、白城組といっさいの縁を切って、私の用意した洋館に来て一緒に暮らしてくれるのなら、工場はタダで貸しましょう」
全く想像もしていなかった話にうろたえる。隼珠はどう答えていいのか分からなかった。
「け、けど、そういうことは、俺だけじゃ決められません。俺は白城の親分さんに買われた身です。決めるのは、白城の親分さんです。親分が行けと言わない限り勝手なことはできんです」
そうだ。迅鷹に相談しなければ。こんなに重要なことを自分だけで決めてはいけない。
「隼珠さん」
沢口の目がスッと細められる。迅鷹の名を聞いて、機嫌を損ねたようだった。
「これはあなたと私の取引です。白城の親分ははさみません。なぜなら、白城の親分さんに話せばきっと、あの人はあなたを離そうとはしなくなるからです。しかも工場が使えると分かれば、無理な頼みをしかけてきて工場を貸せと言うでしょう。あなたはもらえない、工場は博徒にいいように使われる。そういう結果が目に見えるようです。博徒なんぞはそういうものです。脅しと暴力でもって、誰でも言うことをきかせようとする。私は博徒など信用しません。あいつらはクズです。正当な取引など存在しないのです」
能面のような顔で説明する。沢口の言いざまに、伊助は渋い顔をしたが口ははさまなかった。きっと隼珠をここに連れてくるための仲介手数料をもらっているのだろう。
隼珠は黙って聞くしかなかった。
「あなたが断れば、工場は貸しません」
「そんなっ」
畳に手をついて、身を乗り出す。
「しかし、来てくれれば、すぐにでも人足は収容します」
「……」
伊助がまた煙草に火をいれる。
「考えてる暇はねえぞ、隼珠。じきに日が暮れる」
隼珠は畳に目を落とした。
「有難てぇ話じゃねえか。タダで新品の工場を開放してくれる善人なぞ、めったにいねえ。おめえひとりがうんと言えば、皆が助かるんだ。隼珠よ。白城の親分は、おめえの身請けに三百円を諦めたが、それだけの働きをおめえは白城でしてきたのか?」
言われて唇を引き結んだ。
確かに、自分にそれだけの価値はあっただろうか。迅鷹は人助けで隼珠を買ってくれたが、隼珠が白城組でできたことは少なかったし、他の誰かでもこなせる仕事ばかりだった。しかも可愛がってもらう分のほうがずっと多かった。そんな迅鷹に返せるものはあるのか。恩は返したいといつも考えていたけれど、もしかしたらそれが今なのではないか。
しかし迅鷹が大切にしてくれていたのに、その身体を他人に売ると知ったらきっと彼は怒るだろう。それはたやすく想像できる。高価な懐中時計までくれて、心がつながりたいと言ってくれた人を裏切ることになる。
けれど、隼珠が今ここで「はい」と言わなければ白城はどうなるのか。このままでは工事もできなくなるし、大きな損害も出る。そうすれば、出入りも叶わなくなる。
――出入り。
赤尾への出入りができなくなれば、迅鷹も仇討ちができない。
しかし自分は沢口の元へ行けば、出入りに参加することは絶対にできなくなる。
それでも、迅鷹だけでも――願いを叶えてやれるのなら。
「……兄ちゃん」
仇討ちだけを心の支えに生きてきた。蛇定に一太刀でもと望んでいたのに。自分は男の慰み者となってこの先を生きていかなければならないのか。好きでもない相手に、身体をひらいて玩具として一生をすごさねばならなくなるのか。兄が知ったらきっと悲しむだろう。
――それでも。それでも、鷹さんのためならば。
無念の闇に落ちた兄のために。迅鷹が、仇討ちをしてくれるのならば。
「兄ちゃん、……ごめん」
隼珠は小さな声で呟いた。
自分が行かねば暴動が起きるかもしれない。全てが悪い結果になってしまったとき、自分は迅鷹のそばにいて平静でいられるか。
そのときに後悔しても、もう遅い。
――だとしたら。今、できることをすべきだろう。
隼珠は覚悟を決めた。
「わかりやした。行きます」
頭をあげて、そう伝える。
――すいません、鷹さん。黙って裏切るようなまねをしてしまって。
けれど、迅鷹に伝えたらきっと、無理をしてでも隼珠を手放さないような手立てを考えようとするだろう。そんなことはしてもらえない。
死んだ子分がいて、焼け落ちた現場があって。白城組は金もないと亮が言っていた。この重大な時期に、自分のことでこれ以上煩せるなどということは絶対にしてはならない。
そして隼珠に居場所を作ろうとしてくれた人に、自分の身体が少しでも役に立つのなら。
喜んで人身御供になりに行こう。
「お世話になりやす。社長さん。どうぞ、よろしくお願いいたしやす」
隼珠は両手をついて、丁寧にお辞儀をした。
その言葉に沢口は満面の笑みを浮かべた。
「なら、こちらに署名して頂きましょうか」
準備よく沢口は誓約書を用意してきたらしい。そばの机から墨筆を手にして隼珠の前におく。抜かりない手はずは商人らしいやり方だった。
隼珠はそこに『井口隼珠』と名を入れて、拇印を押した。
書類を懐に収めながら、弾んだ声で沢口は言った。
「それじゃあ、伊助親分さん、岸に行きましょうか。陽の暮れる前にさっさと終わらせてしまいましょう」
そうしてまだうなだれている隼珠の手を握ってきた。
「隼珠さん、白城に戻って荷物をまとめていらっしゃい。すぐにうちの馬車を迎えにやりますから。あたしゃね、最近、街はずれに新しく洋館を建てたんですよ。異人の設計士を呼んでね。綺麗な建物ですよ。そこであなたと一緒に暮らしたいんです。そのために色々と準備も整えてあります。行けば驚きますよ。あなたのための、家ですよ」
そう言って、「先に行って、風呂にでもゆっくりつかってなさい。私は遅れていきますからね」と身体を揺らしながら立ちあがる。上機嫌の沢口は伊助と共に部屋を出ていった。
残された隼珠は、ノロノロと身を起こした。
宿屋をあとにして、来たときの倍以上の時間をかけて道を引き返す。白城の屋敷に着くと、帳場で亮が棚から帳面をいくつも取りだして調べ物をしていた。
「おお、隼珠。ちょうどよかった」
忙しそうな亮が、顔をあげてくる。
「もうすぐ住職がくる。通夜の準備に、納戸から座布団をあるだけだしといてくれ。それから仏間と座敷の間の襖も外しておいてくれ」
「へい」
ほとんどうわの空で返事をする。ここを出る準備をしなければならなかったが、言われたことだけはすませていこうと隼珠は納戸に向かった。たくさんの座布団をぜんぶ座敷のすみに積んで襖を外していたら、どこからか風が入ってきて遺体にかけられた白い布をずらした。気づいた隼珠は、布団まで行って枕元にしゃがんだ。布をめくると、それは源吉の遺骸だった。
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