彩風に、たかく翼ひろげて 35


「倒れたお前を見て、親分の足は凍りついたように動かなくなった。おかしな話だ。斬られるのは見殺しにしたはずなのに、倒れて死にかけている姿を見て、それを放っておけなくなってしまうとは。きっと、あの人の人間だった部分が呼び覚まされてしまったんだろう」
ゆっくりと瞼をあげると、口元をかるくゆがめた。
「親分がとまってしまったもんで、俺らも蛇定を追えなくなった。どうするのかと指示を待っていたら親分は長脇差をしまって、お前を背負うと、反対方向に駆けだしたんだ」
「……」
「そのまま親分は医者の所まで、一目散に走っていった。連れていった医者は、もうこの子は助かるまいよと言ったが治療はしてくれた。お前は意識が戻らないまま五日間寝こんだ。その間ずっと、枕元で親分はお前のことを見守っていたんだよ」
 亮の言葉を、隼珠はそのときのことを思いだしながら聞いた。高熱でうなされながら、自分の口に吸い飲みをあてて、金平糖を入れてくれたのは――。
 迅鷹だったのか。
料亭で会ったときから、彼は隼珠のことを分かっていたのだろうか。きっと兄の仇だと話したから分かったろう。だから三百円の代わりに引き取ってくれたのか。古傷で痛む肩を、毎日もんでくれて。飯を食わせ、仕事もくれて道場へ通わせて。
 八年前のことがあったから、亮が『負い目なんですか』ときいたのか。特別に大切にしてくれたのも罪の意識があったからなのか。
 けれど、隼珠を情夫にしたのはただそのためだけじゃないと信じたかった。懐中時計をくれて、心の芯でつながりたいと言ってくれたのは、もっと別の、愛おしいという思いを持ってくれたからだと、信じたい。
「隼珠」
 亮が隼珠の肩に手をおいた。
「お前、親分のことが好きなんだろう」
「……へい」
「なら、あの人の気持ちも分かってやれるな」
「へい」
「源さんも、許してやれるか」
 亮の言葉に、隼珠の心の中にさまざまな思いが去来する。優しい兄の姿と、八年前の悲惨な出来事。斬られた痛みといつまでも疼く古傷。野良犬のような惨めな孤児生活に、博徒に引き取られてからのやくざな暮らし。
 そして、ここにきてからの人間らしい扱い。
 源吉は親切だった。隼珠を孫のように可愛がり世話をしてくれた。それがたとえ後ろめたさからであっても、後悔を背負ったまま死んでいった人を責めることなどできはしない。自分は源吉に対し、許しも礼も言えないまま別れてしまった。もしまたいつかあの世で会うことができるのならこう伝えたい。
「へい。もちろんです。白城の誰も、源吉さんも、亮さんも、俺は恨んだりしません」
 ここに来てから、皆にどれだけ世話になったか。それを思えば、誰も恨む気になどなれなかった。
 亮の瞳に優しさが戻る。隼珠の顔に嘘がないのを見て大きくうなずいた。
「お前は素直でいいな。そのままで、これからもずっと、親分の助けになってやってくれ」
 そうして少し、淋しげな表情をした。
「……俺は先代とそれが叶わなかったが。お前なら、それができるだろう」
 瞳になにか淡い想いをこめてつぶやく。隼珠はそれを見つめ返した。
 そこに子分のひとりが慌ただしくやってくる。大きな声で廊下から亮の名前を呼んだ。
「亮さん、親分が現場に来て欲しいそうです。どうやら、代わりの宿所が見つかったらしくて」
「なに?」
 亮が振り返り立ちあがった。
「わかった。すぐ行く。隼珠、お前はここで留守番してろ。住職が来たら通しておいてくれ」
「へい」
 そう約束はしたが、守れそうになかった。自分はもうすぐこの家を出る。けれど、黙って行くつもりだったので、返事だけはした。
 亮が行ってしまうと、隼珠は寝部屋へと向かった。自分用の行李をあけて、少ない荷物を風呂敷にまとめる。行李の端には懐中時計がしまわれていた。それをそっと手にする。
 袱紗をといて時計を取り出し、蓋をあければ中から繊細な細工の文字盤があらわれた。毎日、きれいに磨いてネジをまわしているから、今も針が小刻みに動いている。
 隼珠が生まれて初めて手にした宝物。
 懐中時計は携帯して使うものなのに、あまりに大事すぎて、隼珠はこれを持ち歩いたことがない。いつも大切に保管している。落として失くしたりしたらもう絶望で生きていけなくなるだろうから、毎朝手入れをしたら袱紗に包んでここに入れていた。迅鷹は持ち歩いて使っているようだったけれど、隼珠の時計は行李の中で静かに眠ったままだ。
 隼珠は袱紗に時計を包み直した。
 これを持っていくことを許してもらえるだろうか。たったひとつの、迅鷹との思い出を。
 離れていても心をつなぐ絆となるもの。別々の場所で生きていっても。それを、これからの支えにさせてもらってもいいだろうか。
「……すいません、鷹さん。これだけは、いただいていくことを許してくだせえ」
 隼珠は深く頭をたれて、ここにはいない相手に許しを請うた。袱紗を懐に入れて風呂敷包みを縛り、隼珠は立ちあがって迅鷹とすごした部屋を後にした。
 屋敷の門を出ると、少し離れた場所に二頭立ての馬車がとまっていた。近づけば、御者が御者台から降りてくる。
「井口隼珠さんですか」
「へえ。そうです」
 答えると、御者は屋根つき箱の入り口をあけてくれた。隼珠は荷物を抱えてそこにのりこんだ。
 四人がゆうに座れる広さの馬車が、ガタゴトと音をたてて走りだす。隼珠は小さな窓にかかった布をあげて、外の景色をそっと眺めた。
 屋敷前の見なれた風景が流れていく。毎日、源吉と現場へ向かった道筋がたどられる。もう二度と通ることのないであろう道が。
 初めてここに来た夜、迅鷹は隼珠の背中の傷跡をなでながら、蛇定の仇討ちは俺に預けろと言った。そうして、肩のこりを楽にするために抱いて眠ってくれた。
 あのときからずっと迅鷹の心の中には罪の意識があったのだろうか。清市を見殺しにして隼珠を斬らせた後悔が。
 けれど、隼珠は迅鷹を憎む気持ちにはちっともなれなかった。
 なぜなら、自分にも同じように後悔があったからだ。あの日、祭りに連れていって欲しいと駄々をこねたのは隼珠だった。祭りに行きさえしなければ清市は死ななかったかもしれない。
 そしてあの場所に、迅鷹たちがいたから自分は助けてもらえた。そうでなければ、自分は斬られたまま雑木林に転がされ死んでいた。迅鷹が医者へ素早く運んでくれたから、今こうして生きていられるのだ。
 運命は縦と横の糸が偶然にからみあって紡がれていく。誰もその先に何があるのか知ることはできない。だから迅鷹と隼珠の関係がそうなったのだとしても、それは全く彼の責任ではないのだ。
 迅鷹が最初に隼珠に感じたのは、憐憫と同情だったのかもしれない。だからいつかは白城を出て、堅気に戻れと言ったのだ。『堅気に戻って普通に、そうして誰よりも、幸せな人生を歩め』と。子分にしなかったのもそのためだろう。決して、隼珠に力がなくて役立たずだったからじゃない。隼珠の幸せのために、博徒にするのをよしとしなかったのだ。
 博徒の親分なのに心の根は優しい人だった。隼珠のことをいつも大切に守ってくれた。野良犬生活でひねくれ者に育った自分を、それでも苦笑いで受け入れてくれた。
「……鷹さん」 
 目に涙がにじみ、隼珠は耐えきれずに窓を布でふさいだ。
 ほんの短い間だったけれど、ここで暮らせて幸せだった。迅鷹のもとで使い走りの仕事をもらって、街中を走り回るのは今までになく幸福だった。道場に通わせてもらい、練習をこなすのも楽しかった。意地悪な子分もいたけれど、それ以上に源吉や亮が優しくしてくれたから気にならなかった。
 そうして、迅鷹に大切にされて。
 生まれて初めて、人を死ぬほど好きになるということを知った。あの人のために、ためだけに生きて死にたいと思った。
 黙って隼珠が白城組を去ったと知ったら、迅鷹は怒るだろう。自らすすんで他の男の元に妾になりに行くのだからきっと軽蔑される。ふたりの間はその程度のつながりだったのかと、失望するかもしれない。
 それでも白城のために宿所を得るために身を売ったことを納得してくれたら、ほんの少しぐらいは、よくやったと褒めてくれるだろうか。
「……鷹さん」
 懐に手をあてて、懐中時計があることを確かめる。これだけが心のよりどころだった。
「鷹さん、鷹さん……」
 ごめんなさい。黙って出てきてしまって。礼の一言も告げず。
 けれど顔を見てしまったら、きっと自分は挫けてしまう。離れたくないと、白城組の将来よりも己の我儘を優先してしまいそうになる。だから挨拶もなく消えることを許して欲しい。
 馬車はとまることなく通りを進んでいく。
 やがて鶴伏の街を出て、郊外の田舎道をさらに人気のない場所へと向かっていった。



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