彩風に、たかく翼ひろげて 36


◇◇◇


 沢口の洋館は、鶴伏のはずれ、久師川を北に二里ほど遡った村にあった。
 周囲には田畑しかなく、遠くを望んでも民家は一軒も見えないひどく寂しい場所に、新築の美しい洋館はぽつねんと建っていた。
 到着するとすぐに玄関から洋装の使用人が出てくる。
「お待ちしておりました。どうぞ」
 丁寧ながらも決して目をあわせようとしない痩せた老年の使用人に、隼珠は黙って頭を下げた。
 連れて行かれたのは二階の一室で、広い洋間には異国風の家具がおかれていた。暖炉もある。明々と火が焚かれていたので部屋は暖かかった。
「お風呂を使ってお待ちくださいとの、旦那様からのご伝言です」
 隣の部屋には奇妙な風呂場があった。板張りの床に足のついた白い陶器の大きな盥がおかれている。その横には見たこともない形をした、こちらも白い陶器の盥があった。
「これは、どうやって、使うんですか」
 戸惑いながらたずねると、使用人はいささか軽蔑した眼差しを隼珠に向けてから説明した。
「この中につかって、サボンで身体を洗います。湯はこちらの金盥から汲んでください。熱いですから気をつけて。こちらは水です。手ぬぐいはこれを」
「へえ」
「それから、こちらはトイレット。洋風便器です。この紐を引くと水が流れます。ここで尻の中まで洗っておいてください」
「え……」
「との、旦那様よりの言いつけです」
「……」
 見下すような視線で告げてから、使用人はその他の細々とした説明を加えて、最後に一礼して部屋を出て行った。
 残された隼珠は風呂場の前で立ち尽くした。
 尻の中まで洗うということがどういうことなのかは、ちゃんとわかっている。もちろんその覚悟できたのだから拒否はできない。
 隼珠は慣れない風呂場で苦労しながら言われた通りのことをした。惨めで泣けてきたけれど、何も考えまいと心を無にして、一心に身体をきれいにした。
 風呂をすませ、洗濯ずみの自分の粗末な木綿の着物を身につけて部屋の片隅に座る。
 そして持ってきた懐中時計を取りだした。
 耳に近づけると、カチカチという小さな音が響いてきた。それを聞きながら、迅鷹は今ごろ何をしているのだろうかと考えた。
 新しい宿所である繊維工場に人足らはもう移動し終わっただろうか。沢口の工場は広いらしいから迅鷹も安心していることだろう。
 しかし、それでもまだ問題は山積みだ。食事も寝具も整えねばならないし、明日からの仕事の準備もある。隼珠のことなど、思いだす暇もないかもしれない。けれど、それならそのほうがいいと思った。
 翳りゆく部屋の隅で、隼珠は時計を握ってうなだれた。
 このまま消えてしまいたい。沢口になど触られたくはない。迅鷹の元に、今すぐにでも駆けて戻ってしまいたい。
「……鷹さん」
 この先自分は何度あの人の名を呼ぶことだろう。もう二度と、そばに仕えることのない人のことを。
 懐中時計を痛む胸に押しあてて、あふれそうになる涙をこらえた。
 灯もない部屋は刻々と闇に沈んでいく。
 いつまで待っても誰も来ない部屋の中で、ふと、目の前の寝台の下に何かがおいてあるのが目について、隼珠は何だろうかと身をかがめた。大きな革製の鞄が隠してある。手を伸ばして取っ手を掴み、奥から鞄を引き出した。
「――」
 あけっぱなしのその中には、張形が大量にしまわれていた。木や陶器でできた大きさも形もさまざまなものだ。それに縄や竹の鞭。本もある。震える手で本をひらくと、そこには逆さ吊りに縛られ、鞭うたれ血を流しながら尻に異物を入れられている少年の絵が描かれていた。隼珠は怖ろしくなって鞄を寝台の下に押し戻した。
 これは沢口の趣味なのだろうか。こんなことを、あの男は自分としたいと思っているのだろうか。張形はどれも大きくて醜くて、挿入されたら身が裂けてしまいそうなものばかりだった。沢口は隼珠を弄り殺すつもりなのか。
 身体が冷たく震えだす。けれど、もう逃げるわけにはいかない。証文も交わしてしまったし、お世話になりますと頭もさげたのだ。
  怖ろしさで一杯になって、けれどどうしようもできない状態に助けを求めるように瞳をさまよわせていると、突然、廊下から怒声が響いてきた。
「一体どういうことなんですかっ」
 大きな声は、沢口のようだ。隼珠は扉を振り返った。
「約束が違うじゃないですか。そんなこと、聞いてませんよっ」
 何が起きたのかと、扉まで急いで行く。そっとひらいて外をのぞき見た。
 廊下の先、階段の手前で、沢口が誰かと言い争いをしている。
 対峙している相手の男は隼珠に背中を向けていた。その痩身は――。
「蛇定……」
 沢口は肉に埋もれた顔を真っ赤にしていた。
「あの子は私のものです。そういう約束でしょう。あなたが私にくれるというから、あの件も協力したんですよ。なのに、どうして今になって」
 隼珠は目をこらした。ふたりは喧嘩をしているようだ。
「そのつもりだったが、事情が変わったんだよ。悪いな、社長さん」
「そんな、今さらですよ。私のほうはあの子を手に入れるために金も使ったし、この屋敷も用意した。工場も差しだした。なのに、ただでよこせと言われても、おいそれと渡すことなんてできはしませんよっ」
 なんの話をしているのだろうかと耳をすます。
「白城を倒したら、あいつはあんたにくれてやるよ。それまで貸せって言ってるだけだ」
「あの子をどうするつもりなんですか」
「鷹をおびき出す餌にするだけさ」
「そんな、死ぬかもしれないじゃないですか! 無事に戻してもらえる保証もないのに貸せません。死んだら私は損ばかりだ」
 どうやら隼珠のことについて、ふたりは言いあっているらしかった。
「生糸で儲けてるじゃねえか。うちの賭場でいい思いもさせてやった。男ぐらいいくらでも買えるだろうが」
「あの子は特別なんですよ。あんな好みの子はそうそういない。手放したくはないんだ。どうか、連れていくのだけは許してくれないか」
 蛇定の着物の袖に沢口が縋る。それを汚いもののように、蛇定は払いのけた。
「男好きめ」
 軽蔑の目を向ける。
 蛇定の言い草に、沢口はブルブルと震えだした。
「証書も交わしたってのに……。今さらそっちの勝手で、反故にできると思ってるんですかっ」
「証文はとうの昔に俺の手下があんたの家から盗み出したぜ。あんたが何言っても無駄だ」
「なっ、な……なっ。盗み……っ。こ、これだから……。これだから、博徒はっ。信用できないんだ……っ」
 蛇定は、腰に長脇差を帯びていた。それに手をかけたのが見えた。けれど頭に血がのぼった沢口は気づいていないようだった。
「なら、あたしは警察に行きますよ。そうしてあんたがしたことをみんな喋ってやる。白城の飯場を燃やしたことも。子分たちを殺したことも」
 焦って声高く話しだした沢口に、しかし蛇定は冷静に笑った。
「あんたも協力しただろうがよ。酒を持って宿所の見張り番のところへ行って、奴らを油断させた。だから俺らは油をまいて火薬を仕かけられたんだ」
 聞いていた隼珠は、怖ろしさに身震いした。
 このふたりは協力しあって、白城の飯場を燃やしたのだ。
「博徒の言い分なんぞ、警察が信じるもんですか」
「構わねえよ。どのみち今の警察署長は動かねえぜ。俺が弱み握って押さえつけてるからな。あんたは用ずみだ。人足が工場に収容されたら、そこにも火をつける予定だ。そうすりゃあ、あんたは破滅だなあ」
 高笑いした蛇定に、沢口が女のような悲鳴をあげた。ひいいっと絹を裂いたように叫びだす。
「工場をっ。わたしの工場をっ、燃やす気かっ」
 腕をわななかせ蛇定につかみかかろうとする。
 それを、蛇定は長脇差を抜きざま、斬りおろした。
 一瞬のことだった。
 隼珠の見ている前で、巨体が大きくのけぞる。血しぶきをあげて沢口は背中から床へ倒れていった。ドン、と大きな音が響き、割けた肉の間から血が泉のようにあふれだす。床が真っ赤に濡れていった。
 沢口の身体はヒクヒクと痙攣し、しばらく目をむいていたが、やがてそれも動かなくなった。
「……」
 斬ってしまった。沢口を。この冷酷な博徒はなんのためらいも見せずに。
 蛇定は沢口に近づくと、しゃがんで死を確かめた。それから服の汚れていない部分で血をぬぐうと、刀を鞘に納めた。
 そうして立ちあがり、こちらへとやってきた。隼珠がハッと身を引くのと同時に、扉が乱暴にあけられる。
「ここにいやがったか」
 隼珠を見つけて、ニヤリと嫌らしく笑う。
「さあ、来な。てめえは大事な餌だ」
 隼珠は逃げ道を探した。けれど長脇差を持ち、扉の前に立ちふさがるこの男からどうやって逃げればいいのか。



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