彩風に、たかく翼ひろげて 37


「旦那様、今の大きな音はなんでございましょう」
 そのとき、階下から使用人の声がした。
「旦那様! 旦那様、たっ、大変だっ! 誰か!」
 蛇定が舌打ちする。
「一緒に来い。赤尾は今、出入りの準備の真っ最中だ。おめえを人質に白鷹を討ち取ってやる」
「……嫌だっ」
 脇をすり抜けようとしたが、左腕をつかまれねじられた。それでも振り切ろうともみあっていると、隼珠の懐から懐中時計が転がり出た。
「――あっ」
 蛇定が時計に気づかず草履の先で蹴りあげる。
 時計は壁に設えられた暖炉へと飛んでいった。中では薪がめらめらと燃えている。その炎の真ん中にキラリと光りながら落ちていった。
「時計がっ」
 迅鷹との心をつなぐ大切な時計が――。
 身体から、力が抜けていく。
 呆然となった隼珠を、蛇定は引きずりながら長持ちまで連れていくと、中を漁って腰ひもと布巾を取り出した。紐で隼珠を後ろ手に縛り、布巾を口につめこむ。そうして窓へ無理矢理引っ張っていった。
「大人しくしてろよ」
 窓枠をあげて外の様子をうかがう。庭には誰もいない。
「飛び降りろ」
 言うなり、隼珠を窓の外へ無造作に放りだした。


◇◇◇


 何度か、気を失いかけていたと思う。
 二階から突き落とされた隼珠は、下が土だったおかげで打身程度ですんだが、その後は蛇定に引きずられ、久師川へ出て渡し舟を使い、途中人力車にのせられ赤尾の縄張りへと連れていかれた。
 行き着いたのは赤尾の屋敷だったらしい。里山のふもとにある農家が数件あるだけの静かな村の、大きな屋敷の門の潜り戸を蛇定と共に入る。門構えも立派なその屋敷には大きな提灯がふたつ門前に掲げられていた。そのせいであたりはほの明るかった。
 どこからともなく線香の匂いがする。それで思いだした。赤尾も葬式を終えたばかりのはずだった。
 蛇定は屋敷の奥にある、二棟並んだ土蔵のひとつに隼珠をとじこめた。首に縄をつけて片方を柱に縛りつけ犬のようにする。
「……うっ」
 痛みに呻けば、蛇定は酷薄な笑みを浮かべた。それが蔵の上部に取りつけられた小さな窓から入る光で分かった。
「当分、ここにいろ」
 隼珠が睨むと、蛇定はいきなり隼珠の首をつかんできた。
「うぐっ」
 しめあげられて顔がのけぞる。蛇定が苦痛をこらえる表情を堪能するように目を細めて言った。
「逃げようなんて思うなよ」
 隼珠を床に放り投げる。
「うっ、う、ううっ」
 抗議するように呻けば、蛇定は口の端を持ちあげた。
「なんだ? なにか言いたそうだな」
 隼珠が苦労して口の中の布巾を吐き出し、床に落とす。
「……警察に捕まるぞ」
 えずきながら睨みあげた。
「沢口社長を殺して……あんなひどいことをして、逃げられるはずがない。今度こそ捕まって、縛り首だ」
 それにも蛇定の不気味な笑みは消えることはなかった。
「捕まらねえさ」
「今までは、逃げ切れたかもしれないけれど、今度ばかりは絶対に無理だ。あの屋敷の使用人がお前のいることに気づいていないはずがねえ」
 蛇定は隼珠の言い分に、面白そうに口をニイッと持ちあげた。
「そうさ。いいところに気が付いたなあ。警察は使用人に犯人が誰か聞くだろうさ。俺んとこにも調べが来るだろう。そして、警察はお前を捕縛しようとする」
「え?」
「沢口を殺したのはおめえだ。無理矢理、情夫として買われて、あいつの悪趣味な遊びにつきあわされそうになって腹を立てて斬っちまった。それで屋敷を逃げ出した」
「な、何を言って……」
「俺は現場を偶然見ていた。社長を殺したのはお前だと、俺が警察に言ってやる」
 薄笑いを浮かべた顔は、奸計を企む悪漢そのものだった。
「そ、そんな言葉が通用するわけない……」
「そうかい? 俺が白城の鷹を討って、その後、お前も斬り捨て、使用人も脅して黙らせてやったら、俺の筋書き通りにうまくいくと思わねえか?」
 この男は沢口殺しの罪を隼珠になすりつけて、そのまま殺すつもりなのだ。
「そうすりゃあ、白城の縄張りは俺のものになるし、おめえは殺人犯として死んでいく。俺はうめえところ全部をいただいて、鶴伏一の大親分にのぼりつめるってえ寸法さ」
「……」
 隼珠は歯の根が震えた。どこまでも冷酷なこの男は、人を欺くことも殺すことも、露ほども罪に思っていない。
 青白くなった顔で目を見ひらく隼珠に、蛇定は立ちあがり鷹揚に笑った。
「すぐに白鷹に会わせてやる。あの世でな」
 そう言いおいて蔵を出ていく。閂と鍵がかけられる音がして、隼珠は暗闇の中にひとり残された。
 大きな木箱や蓆(むしろ)に包んだ物が雑多につめこまれた蔵はしんと静まり返っている。陽が落ちて暗くなると、敷地のはずれにあるこのあたりには誰も来なくなるらしい。隼珠は立ちあがって歩いてみたが動ける範囲はひどくせまかった。首には縄が巻かれ、手は後ろに縛られている。
「……うっ」
 腕が痛くてジンジンと痺れる。それに耐えながら、隼珠は両手首を動かしてみた。固く縛られていてほとんど動かない。闇の中、窓から入るわずかの月明りを頼りに、周囲に何か逃亡に役立ちそうなものはないかと探ってみた。しかしどれも離れた場所にあって手が届きそうにない。
 白城組は今どうなっているのだろう。迅鷹はどこにいるのか。それが気になって焦りで一杯になる。早くここを抜けだして戻らないと。今夜にでも工場は燃やされてしまうかもしれない。
 こんな恰好になってしまった自分が悔しくて、情けなくて、隼珠は歯噛みしながら身をよじった。
 どれくらいそうしていただろうか。左肩の痺れと両手首の痛みに耐えきれなくなり、床に横たわってそれでも腕を紐から抜こうと動かしていた隼珠は、遠くで大きな音がしたのにハッと顔をあげた。
 ドオン、という低い振動が腹に響いてくる。それが、続けざまにもう一度。
 何が起きたのかと身を起こすと、ときをおかず男たちの叫び声が聞こえてきた。うわあ、うわあと騒いだり怒鳴ったりする声が離れた場所からわきおこる。
 隼珠は驚いて立ちあがった。蔵の上部にある小さな窓を見あげると、そこから外の様子が少しだけ伝わってきた。
 いぶかしむ隼珠の耳に、遠くからかすかな呼び声が聞こえた。
「――隼珠」
 と叫ぶ声が、確かに、小さいながらも耳に届く。
 まさかと、隼珠は縄のゆるす限り窓に近づいた。
「鷹さん……?」
 まさか、あの人が、ここに。
「出入りだあっ」
 と、ひと際大きく誰かが吼える。それにかぶさるように、大勢の足音が近づいてきた。




                   目次     前頁へ<  >次頁