彩風に、たかく翼ひろげて 40
「沢口は殺されていた。犯人は蛇定だろうと使用人が言った。だが、お前の姿はなかった。俺ぁ、蛇定がお前を餌に俺をおびきだそうとしているんだと考えた。だから白城組に戻ってすぐに出入りを決めたんだ」
「……」
「残忍な蛇定が、お前をどう扱うのか想像したら、もう余裕はねえと思ったんだ」
「……鷹さん」
出入りまでの経緯を話されて、隼珠は胸がしめつけられた。迅鷹が出入りを決断したのは、隼珠を救いだすためだったのだ。
迅鷹はまた前を向いた。隼珠の手を握りしめたまま坂道をのぼっていく。
「隼珠よ」
暗闇の中、木や草をかき分ける音にまざって、迅鷹の低い声がした。今夜の月は半月らしい。薄雲のかかった空に、半身を闇に溶かした姿が浮いていた。
それを背に迅鷹は歩を進めた。休むことなく歩いていく。どこか目的地があって、そこに向かっているようだった。
「お前は、俺にとって特別なんだ。だから博徒の世界で、もう傷つけさせるようなまねはしたくねえ」
静かに告げる。そうして痛みをこらえるような顔をした。
「俺は、お前に話さなきゃならねえことがある」
思いつめた声で呟く。
「八年前の事件のことだ」
闇の中で隼珠はうなずいた。それを視界の隅でとらえたらしく、迅鷹が見おろしてくる。
隼珠は憂いを含んだ精悍な男の顔を見つめた。
「……それなら、聞きやした」
隼珠の答えに、迅鷹が目を眇める。
「亮さんと、源さんから、少し前に、話してもらいやした」
「……」
相手がどうして知ることになったのかと問うような表情になった。それに隼珠はわけを話す。源吉が死ぬ間際に言ったこと、それを偶然、亮に話してしまったこと。隼珠が亮に頼んで、仔細を明らかにしてもらったこと。喋ってしまったふたりに非はないことを明らかにしながら伝える。迅鷹は黙って聞いた。
「……そうか」
話し終えるとポツリと一言こぼす。そうしてから大きくため息をついた。次の言葉をどうかけるべきかと考える様子に、隼珠はその暇を与えず口をひらいた。
「俺は、八年前のことで白城の人たちを責める気はねえです。俺が今ここで生きてるのは、鷹さんのおかげなんだし、こうやって、仇討ちできたのも鷹さんが俺のことを助けてくれたからだと信じてやす。だからなんにも恨んでねえ」
隼珠の言葉に、迅鷹が眉根をよせた。言われた内容に心の負担がかるくなるわけではなく、むしろ罪は重くなったという様子をみせる。隼珠にそんなことを言わせてしまう自分を責めているようだった。
だから隼珠は、その罪の意識をなくして欲しくて、強く言った。
「運命だったんだ」
こうなってしまう。
誰も避けることのできない、全ての人間が抱える、抗えない大きなもの。源吉も清市も沢口も――そして自分も、この人も――。
「鷹さん、俺が知りたいのは、ただひとつだけなんです」
いつの間にか足はとまっていた。ふたりは佇み、見つめあっていた。
「鷹さんが、俺を情夫にしたのは、負い目からだったんですか」
問いかける唇が震える。
相手に対してひどく心ないことを訊いているのは分かっていた。迅鷹は隼珠をとても大切にしてくれたのに。
けれど、隼珠には、いつもどこかに不安の種があった。
「俺が、我儘をいって、そばにいたいと縋ったから、情けをかけてくれたんですか」
心の芯はつながりたいと言いつつ最後の最後はよせつけない。いつかは離れることを予期している。だから、一線を引かれている心細さがたえず身体の底にあった。
迅鷹の本心を知りたい。この人が、自分をどう思っているのかを。
抗えない大きな運命にも侵食されないものがあるのだとしたら、それは人の心だろう。それだけは、自分の力で変わらず保つことができる。
運命にとらわれず、人が抱えていられるもの。
迅鷹の心の芯にある、それが知りたい。
相手の顔がギュッとゆがんだ。
「馬鹿野郎」
つかんだ手に力がこもる。
「そんなわけあるか。俺が、お前をそんな風に扱うわけねえだろう。お前は、俺にとって――」
隼珠の瞳から、一筋の涙がこぼれた。
知らぬうちに感情がたかぶって、限界を越えていたらしい。それが月明りにさらされる。迅鷹は言葉をとめた。
隼珠の濡れた頬に、指をそっとそえてくる。闘いの後の硬い指先だった。見れば、迅鷹の顔には小さな傷がいくつもある。きっと身体も傷だらけなのだろう。隼珠も同様に、縛られていた手首が擦り切れていた。
けれどふたりとも今は、そんな痛みなど忘れていた。
「隼珠」
感情をさらけだして、情けない表情になってしまった隼珠の顔を愛おしむようになでてくる。
そのとき、遠くでひときわ大きく半鐘の音が鳴りだした。
迅鷹がそちらに顔を向ける。隼珠も振り返った。迅鷹はあたりを見渡してから、獣道を外れると、道脇の少し平らになっているところに足を踏み入れた。
隼珠が後を追うと、木々の合間から眼下が見おろせた。山のふもとの一軒から火が出ている。赤尾の屋敷だった。
「こっちへ来な」
迅鷹に手を引かれ、足元のならされた場所へ導かれる。畳一枚分ほど、木や草が抜かれ整えられたところがあった。
「ここは赤尾を見張るために作っておいた隠れ場所なんだ」
平らなところの先は、大きく落ちこんでいる。目の前にはまばらに茂った杉や欅があり、ふもとからは気づかれにくい見張り台のように設えられていた。ここが迅鷹が目指していた目的地のようだった。
濃紺に包まれた村は、月明りでわずかに家や田畑の輪郭が見分けられる程度だ。しかし赤尾の屋敷の周辺だけは、煌々と炎に照らされている。
周囲には人が集まり始めているようで、提灯がいくつも動いていた。けれど、ここまで火が回ってしまってはもう手の施しようがないだろう。人々は見ているしかないようだった。
夜空に響く鐘の音を聞きながら、迅鷹と隼珠は、木々の間からそれを眺めた。
「これで、終わったな」
迅鷹が隼珠を引きよせて言う。隼珠は燃え続ける屋敷に目を向けた。
「……へい」
蛇定ももう、この世にはいない。隼珠を苦しめた男は、永遠にここを去った。
「お前は、これで、いいか?」
確かめられて、隼珠は迅鷹を見あげた。迅鷹は静かな目をしていた。
「へい」
隼珠の答えに、迅鷹は「そうか」とだけ返した。
しばし無言で、焼け落ちていく屋敷を遠目に見る。隼珠は八年間、自分をとらえ続けていた執着が、苦しめていた怒りが、はらはらと身体から剥がれ落ちていくような気持ちになった。
そうして全身から緊張が抜けていくと、改めて迅鷹の手の強さを感じた。
この人がいてくれたから、自分はここまで来ることができた。迅鷹でなかったら自分はこれほど信頼して、ついてくることなどできはしなかったろう。
隼珠の胸に熱の塊のような想いがあふれてくる。
迅鷹のことが好きだった。胸が張り裂けそうなくらいに。
たとえ情けで抱かれたのだとしても、自分の身体は、この人以外には応えられない。自分はただ、この人のためにある。この人だけが、隼珠を無念の闇から救ってくれた。
隼珠は迅鷹の着物の裾をギュッとつかんだ。もう離れたくないと言うように。言葉にできない想いを伝えるかのように。
迅鷹は分かっただろうか。前を見つめたまま、沈んだ声で話しだした。
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