彩風に、たかく翼ひろげて 45


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 月日の流れを感じるのは、日常の暮らしの中に、新しいものがやってきて古いものが去っていくのを見るときだ。
 たとえば世情。明治二十七年に日本は隣国との戦争が勃発し、翌年、勝利して終結した。たとえば風俗。隼珠は二十三歳になり、この年初めて洋服を仕立てた。
 身体にぴったりと合わせた三つ揃いにネクタイをしめた姿を鏡で見たときは、まるで自分じゃないようで、隼珠は思わず照れくささに鏡から目をそらしてしまった。
 それでも大切な人を迎える晴れの日の準備なのだからと、財布の中身をはたいて靴からケイプまでしつらえた。そしてベストの脇ポケットには、鎖でつながれた懐中時計。これは五年前の出入りのときに蛇定に暖炉に放りこまれたものだ。
 あの後、隼珠は焼け焦げた時計を取り戻し、伝手をたどって外国と取引のある商人に修理の依頼をした。どれだけお金と時間がかかってもいい。どうしてもこの時計を直したい。そう願って壊れた時計を船にのせた。
 時計は手元に戻るまでに二年の歳月を要した。けれど、その甲斐あってか元通りの姿で隼珠のところに返ってきたのだった。
 相手の時計も隼珠が預かっている。あの人が帰ってきたら、対のひとつは渡すつもりだ。
 あの日、赤尾への出入りの後、白城の家に戻るとそこには警察が来ていた。親分である迅鷹は子分らと共に逮捕されて、警察署へ連れていかれた。隼珠も取調べを受けたが、蛇定への行為は正当な防衛とみなされて、罪には問われず解放された。多くの子分らも同様にほどなく釈放された。
 しかし白城一家の頭である迅鷹はそうはいかなかった。数人の罪の重い子分らと共に、監獄送りになることは明白で、その噂はあっという間に鶴伏中に広まった。困惑したのは白城の子分だけではなかった。街の多くの住人達も、白城組の親分の逮捕に戸惑った。
 白城の鷹は、鶴伏で一番の信頼できる親分だ。彼がいなくなったら、街の治安はどうなるのか。赤尾の残党が勢力を取り戻そうとするかもしれないし、街の周辺に多くいる他の親分衆が白城の鷹の留守をいいことに、好き勝手を始めるかもしれない。商工会の会長や顔役ら、街の名士は集まって話しあい、警察署長にかけあって罪をかるくするように嘆願した。博徒の親分が同様の理由で罪を軽減された例がないわけではない。街の有力者は迅鷹のために優秀な弁護人も用意した。
 そうして赤尾一家の生き残りで逮捕された者らと共に、裁判は数か月にわたって行われ、最終的に迅鷹には五年の禁固刑が言い渡された。それでも短くなった方かもしれない。博徒の裁判だ。悪くすれば終身刑もありうる。隼珠や子分らは判決を聞いたとき、ほんの少しだけ気持ちがおさまる思いがした。
 迅鷹の留守を、自分たちの手できちんと守らねばならない。戻って来るまで、縄張りを守り、請け負った仕事もぬかりなくこなさねばならない。堤防工事は、迅鷹が出入り前に同業を営む親分に相談していたらしく、工事は支障なく始められた。飯場も沢口の老いた父親が、息子殺しの犯人が蛇定だと知って、無償で工場を貸しだしてくれた。
 親分不在の組を守るため、隼珠はそれから亮らと共に奔走した。残された子分と、日々骨身を惜しまず働いた。そんな隼珠を子分たちも以前とは見方を変えてきた。彼らは隼珠が蛇定に蹴りを入れて倒したところを間近で見ていたらしい。あの雷のような素早い足技に度肝を抜かれた子分たちはそれ以来、隼珠への態度を改めたのだった。昔は隼珠を苛めていた子分らも今では仲のいい間柄になっている。
 あの日以来、隼珠には『足蹴り隼珠』というあだ名がついた。いつの間にか、そう呼ばれるようになっていた。
 博徒はふたつ名がついて一人前という風潮がある。隼珠はどこへ行っても、『早業の蹴りを見せろ』とせがまれるようにまでなってしまい、いささか困らせられたりもしたけれど、仲間に認められたような気がしてそれも嬉しかった。
 月命日には清市の墓を参り、博徒として生きていくことの許しを願った。返事はないけれど、人様に恥ずかしくない生き方だけはすると誓う。
 迅鷹からは時折、検閲された手紙が届いた。それには宮城集治監に収監されていると書かれていた。手紙が来れば無事にすごしていることがわかる。隼珠はそれを心の支えにした。
 そうやって冬を越し、夏を迎え、完成した久師川の堤防に生えたススキが背を伸ばすのに時の流れを教えられながら、一日千秋の思いで毎日をすごす。
 やがて五年の月日がたち、迅鷹が釈放される日が近づいてきた。隼珠は洋服を新調して大切な人を迎える準備を整えると、亮に頼まれてひとりで仙台へと出かけた。他の子分らは屋敷で出迎える用意をすることにしたらしい。
宮城集治監の門の前で六角形の塔を遠目に見ながら、扉がひらいて中から人が出てくるのをただひたすら待つ。
 夕刻になってから、扉は重い音をたててゆっくりとひらかれた。
 中から看守に伴われ、着流しの背の高い男があらわれる。昔よりずっと短く刈られた髪に、少しやつれた姿。けれど幅広い肩と、堅気にはない冴えた瞳は変わらない。
 隼珠はそっと一歩踏みだした。
 男は看守に挨拶をして門の前から歩きはじめた。顔をあげて、道の先に隼珠がいるのを見つけると、眩しいものを見るように目を細める。
 隼珠の心臓は、壊れそうなくらい大きく鼓動した。
「……鷹さん」
 呼びかける声は、口の中だけで小さく消えた。迅鷹の表情は一瞬、知らないものを見るように怪訝になった。それに不安を覚える。
 もしかしてもう、迅鷹は隼珠のことなど忘れてしまったのではないか。五年の間に気持ちも冷めて、好きだったことは一時の気の迷いと心変わりしてしまったのではないか。
 足が凍ったように動かなくなる。怖くて先に進むことができなくなってしまった。
 そんな隼珠を相手はしばらくの間、少し呆然としたように眺めてきた。凛々しい眼差しが眇められている。
 おずおずとした顔で見返す隼珠に、やがて迅鷹はゆっくりと相好を崩した。
「隼珠か?」
 久しぶりに聞く声に、口元がグッとさがる。
「……へい」
 泣きそうになった隼珠に、迅鷹はなんともいえない感慨深い笑みをみせた。
「どこの華族の御子息がいるのかと思ったぞ。……背が伸びたな」
「へ、へい。あれから。……少し」
 隼珠は顔を真っ赤にして答えた。そうしながら、張り切りすぎて洋装などしてきてしまった自分を少し後悔した。
「おつとめ、ご苦労様でございやした」
 頭をさげた隼珠に、迅鷹は周囲を見渡していった。
「迎えは、お前だけか」
 監獄前の通りは、この時間は淋しくて人通りはほとんどない。



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