エアキス 03
「瀬田川ってさ。俺と同い年だよな、確か」
「ああ、うん」
胸に忸怩たるものがわいてきて、その感情のままに話を進める。
「んじゃあ、そろそろ、お前も周囲がうるさいんじゃないの? 身を固めろとかさ」
「そうだな」
結婚の話題にも興味がないようで、話に乗ってくれる様子はない。
「お前、カノジョいんの?」
さりげなさを装ってたずねてみる。もしも彼女がいて、のろけられでもしたら、この不可解な気持ちにもピリオドが打てる気がした。
「いないよ」
当たり前のように、さらりと答えられたので、「あ、そうなん?」と驚きの声が出る。
「てっきりいるかと。お前、モテそうだから」
「モテないよ」
恋愛など自分には全く関係のないことだとでも言いたげな、淡泊な口調だった。
「イヤイヤ。それはない。お前がモテないとか。女子らの視線に気づいてないの?」
首を振って、砕けた調子できいてみる。
「そっちこそ、女子社員の噂の的になってるよ」
「まじでか」
「黙ってればイケメンなのにってさ」
「……」
ちょっとだけ相手の目元が緩まるが、それは別に、こちらに好意を持ってくれているからではなさそうだった。
狩谷はガッカリしながら立ちあがった。
「飲み物買ってくる。お前もなんか飲む? おごるよ」
「いいよ」
「いや、教えてもらったお礼」
「じゃあ水で」
「おけ」
狩谷はフロアを出て、自販機のある廊下の先へと向かっていった。突きあたりのエレベーター前にある自販機から、ペットボトルの水を選んで二本買い部屋に戻る。
広い室内には、部署を仕切るための低い衝立(ついたて)が所々にあった。迷路のようなそれを辿りつつ自分の席の近くにきたとき、ちょうど反対側の入り口から誰かが飛び込んできた。タイルカーペットの床にも響くような、大きな足音だ。
「遙樹」
瀬田川を下の名前で呼んだのは、竹林部長だった。
仕切りの上部から狩谷が顔を出しているにもかかわらず、竹林は全く気づかず瀬田川の席まで走っていった。
「さっきは悪かった。あいつとはなんでもないんだ。付き合ってもいない。だから――」
「竹林さん」
瀬田川がピシャリと言葉をはねのけて、視線をこちらに向ける。竹林もそれを辿って、狩谷を見つけ、顔色を変えた。
「狩谷くん、……きてたのか」
「あ。すんません」
竹林がうろたえた様子になり、周囲を落ち着きなく見わたす。部屋にいるのは三人と確認すると、瀬田川に顔をよせて小声で言った。
「ちょっと、いいかな。まだ話が残ってるんだよ」
瀬田川は明らかに迷惑そうな表情で、狩谷をチラ見した。狩谷が邪魔なのか、それとも竹林がウザいのか判断がつかない顔つきだ。
狩谷は居心地悪く、そのまま自分のデスクに向かうと、椅子に腰を下ろした。他にどうしようもなかった。何も聞かなかった振りで仕事の続きを始める。
「……わかりました」
瀬田川は仕方なさそうに答えると椅子から立ちあがり、竹林と一緒に部屋を出ていった。
急にがらんとなったフロアに取り残された狩谷は、しばらく画面の数字の羅列を睨んでいたが、突然立ちあがり、ふたりの後を追った。
入り口のドアをあけてそっと廊下に顔を出す。廊下の先、観葉植物の陰にふたりの姿があった。足音を立てずに近づいて、手前の角に身を潜めた。
「隣のオフィスのあの子とは付き合ってたわけじゃない。何度か誘われて飲みにいってただけだよ。勘違いしないでくれ」
竹林の弁解めいた声が聞こえる。
「けど、あの人、竹林さんと寝たようなこと言ってたじゃないですか」
それに瀬田川が冷たく答えた。
「ええ? えと、……そうだっけか。うん、あれはだね、えっと……やっぱ寝たっけかな。酔っ払うと僕、記憶なくすんだよね」
「竹林さん、それ何度目ですか」
瀬田川がため息まじりに呟く。
竹林はふたりの上司で四十手前のバツイチだった。
いつも洒落た服装で、仕事はできるが口先だけで人を言いくるめるようなところがあり、狩谷はあまり好きではない。飲み会の席では今まで落とした女の子の自慢話をするような軽薄男でもあった。遊んでいるとは思っていたが、男も恋愛対象とは知らなかった。
話の内容を聞く限り、竹林は瀬田川と特別な関係にあるようだった。
というか、瀬田川は男と付き合えるのか。というか男とだけ付き合うタイプなのかもしれない。だから女子にも興味を示さなかったのか。
「……まじで」
狩谷は額を手で押さえた。
「もういいです。好きになさってください。さっきも言いましたが、竹林さんとは別れますから」
「遙樹」
「名前で呼ぶのもやめてください」
「頼むよ。そんなこと言うなよ。悪かった。もうしない」
「別れたんで、これからは何度なさっても結構です」
とりつく島もない、素っ気ない言い方だった。
「俺もう、竹林さんには、好きだっていう気持ちはありません。信じる気持ちもなくなりました。ですから新しい人のところへ、どうぞ心おきなくいってください。じゃあ」
一方的に話を終わらせると瀬田川はその場を離れたようだった。彼の足音が遠ざかり、その後で竹林のため息が聞こえてくる。しばしの沈黙の後、また竹林の声が聞こえてきた。
「――ああ、もしもし、レンちゃん? うん。終わった。今から会える?」
スマホで電話をかけ始めたらしい。さっきとは全く異なる明るい声音で、どこかの誰かと会話をはじめる。
狩谷はうんざりしながらその場を後にした。
デスクに戻ると、隣の席に瀬田川はいなかった。どうしたもんかと椅子に腰かけながら考える。今見た光景に、頭が混乱していた。
同僚の瀬田川は、男が恋愛対象で、恋人は上司の竹林だった。
彼が先ほど泣いていたのは多分、チームリーダになれなかったためではなく、竹林の浮気で揉めていたせいだ。そして自分はその現場を目撃してしまった。さらに詳細を盗み聞きした。
目をとじてきつく眉間に皺をよせる。
「なんであんな、くだんねえ男に捕まってんだ……」
それが一番最初にわきあがった感情だった。
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