エアキス 02
だが瀬田川を前にすると、そいつが、『自分を認めろ』と訴えかけてくる。『俺はここにいる、早く自由にしてくれ』と暴れ出す。
狩谷は仕事中にもかかわらず、へその下の厄介な代物が自己主張をしはじめたのにうんざりした。
もう三十四歳になるというのに。いい加減に落ち着けよ。
心の中で、自分自身に言い聞かせる。
狩谷は最近、親からも結婚をせかされていた。――そろそろフラフラするのはやめて、家庭を持ったほうがいいんじゃい? 同級生はみんなそうしてるわよ――という母の声。
自分はもう、そういう歳になるのだ。友人らは次々に結婚式をあげ、ライングループに子供の写真をあげている。来年は三十五歳。やろうと思えば女子と結婚できるのだから、早く身を固めてこんな不埒な感情とは手を切るべきだ。
瀬田川だって、狩谷のことは同僚としか見ていない。というか、どちらかというと同僚以下なのかもしれない。
こいつはいつも自分に優しくない。仕事の話しかしないし、言い方も素っ気ない。さっきみたいに、食事に誘っても断られる。瀬田川の眼中に、狩谷は全く入っていないのだ。きっと彼はノーマルで、家に帰れば遠距離の彼女とかいるんだろう。こいつなら労せず恋人も得られそうだし。
そんなことを考えながら画面を見ていたら、ちょっとわからないことが見つかって狩谷は意識を仕事に戻した。数値を睨みつつ内容を理解しようと思考を巡らすが、複雑な事象なのかすぐには答えが得られない。
仕方なく隣の男にたずねてみようと思い、椅子を回転させた。
「なあちょっと、ここんとこ、きいてもいい?」
「え?」
何もせずにぼんやりしていた男は、不意を突かれて思わずといった様子で顔をあげた。
その目が涙で潤んでいる。
今にもこぼれそうな雫が、下睫にたまっていた。それが瞬きした拍子に、ほろりとこぼれる。
「あ」
「あ」
同時に声をあげた。
「……やば」
慌てて俯いた瀬田川に、狩谷も近くにあったティッシュボックスを引きよせた。数枚抜いて相手に手渡す。
「すまん」
瀬田川は心底すまなさそうに、ティッシュで目をぬぐい、それからマスクをずらして鼻を押さえた。
「いや。いいし」
気にすんな、と言うように、もう数枚抜いて相手に差し出す。それを受け取って、瀬田川がまた目をふいた。白い花束みたいになったティッシュが、瀬田川の顔の上でふわふわ揺れる。赤らんだ目元との対比が、何とも艶めかしかった。こんなときに不謹慎だが、下腹にまたやるせない疼きがやってくる。
「……なんか、もう、情けないな、俺」
瀬田川は無理に笑っているらしく、口元は見えないが言い方に自嘲が混ざった。
「いや。やっぱ、ショックだろ、普通はさ」
昇進のために文書を作成し面談を行い、部下や上司に昇格推薦状も書いてもらい、たぶん自身でも確定と予想していたのにこの結果では落ちこむのも無理はない。
「悪い。迷惑かけた。――で、何?」
すぐに気持ちを切り替え、たずね返してきた。
「ああ。えっと、ここなんだけど」
ノートPCの画面を相手に向けて説明をすると、「うん」と理解したらしく軽く応じてくれる。
「この表だとちょっとわかりにくいな。たしか俺のところに別に図解した資料があったはずだから。それ見ればすぐにわかるよ」
そう言って、自分のノートPCを立ちあげた。
「共有クラウドにファイルあげとくから」
「ああ、ありがと」
届いたファイルを開いて確認していたら、瀬田川が近づいてくる。
「ほら、ここ。小さいけど、これが表に示されてた数値の部分」
横から手が伸びてきて、画面を指し示す。身体が微妙にくっつく恰好になり、狩谷はどうしてかドキドキしてしまった。ふたりとも今日はカジュアルスーツで、ジャケットはなし。マスクをしていて声がこもるせいか、距離感がいつもと違う。
「わかる?」
涼しげな声が耳に近い。それが心臓の鼓動を早める。体内に炭酸水を注ぎ込まれたかのように、皮膚が粟立った。
「――ああ、うん。わかった。ありがとう」
「ならよかった」
瀬田川が少し遠ざかり、それにちょっと安堵する。しかし同じくらいに、名残惜しさも感じてしまった。もっと傍にいて欲しかった。早まっていた心臓が落ち着くに従い、不埒な感情が生じてくる。
「この資料、他にもあってさ、使うんだったら――」
と、瀬田川が話している最中に、とつぜん狩谷のスマホが着信音を鳴らした。
通話呼び出しのようで、軽快なベルが静かなフロアに鳴り響く。狩谷はいささか乱暴な鈴の音を急いで消そうと、机の上のスマホを手に取った。
相手は母親だった。
「……まじかよ。ちょっとごめん、親からだ」
「ああ、いいよ」
瀬田川は離れていき、狩谷はばつの悪さを覚えながら電話に出た。
「――俺だけど、どしたの? ……ああ、うん」
母親からの電話の内容は、この前、狩谷のマンションに送った釣書に関してで、写真の女性と見合いをするかどうかとの確認だった。狩谷は女性の顔を思い出そうとして、その容姿が全く頭に浮かばないことに眉根をよせた。ついこの間までは、見合いしてもいいかと思えたほどの相手だったのに。
「ちょっと保留にしてもらっていい? 今は帰省しようにもできないじゃん」
そう伝えると、母親もまあそうねえと納得した様子で答える。狩谷は今仕事中だからと、断りを入れてから、電話を切った。
「すまん。話の途中で」
「ああいいよ」
瀬田川は狩谷の近くで、椅子に腰かけたまま電話を終えるのを待っていた。別に急ぐ様子もないので、今日は竹林部長との打ち合わせのためだけに出社したらしい。
「なんかさ、見合いを勧められてて」
肩をすくめ、スマホの画面に目を落とす。それから上目で相手を見た。
「そうなんだ」
明らかに興味のない声で返される。
「うん。お前もそろそろいい歳なんだから、遊んでばっかりいないで、落ち着けってさ」
マスクの下で苦笑する。ちょっとだけモテるアピールをしてみたが、食いつく気配は微塵もない。
「まあそうだな」
目の前の相手は、表情を変えずに聞いていた。
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