エアキス 01


現代物 2020年 自粛中の出来事です。サラリーマン同士 性描写はありません。


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 久しぶりの出社は、 自分がサラリーマンだったことを思い出させる。
 ほぼ三ヶ月ぶりの電車通勤と、街のにおい。マスク越しでも感じられる、都会の空気と質感。
 午前十時、新宿高層ビル三十七階のオフィスには、狩谷隆利(かりやたかとし)以外は誰も出勤していないはずだった。
 電気の消えた百人収容のフロアの片隅。しかしなぜか、自分の席の隣が明るい。見れば、同い年の社員、瀬田川遙樹(せたかわはるき)がぼんやりとした様子で椅子に座っていた。
 マスクをしていてもよくわかる。端整なその顔が、暗く沈んでいることが。
 ――やべ。
 とっさに狩谷はそう思った。
 今、あいつに会うのは気まずい。できれば本人と顔を合わせるのは避けたかったのだが、いるのでは仕方がない。
 狩谷は平気な顔を保ちつつ、自分のデスクへと近づいた。
「やあ」
 なるべく明るく声をかける。すると、こちらに気づいた瀬田川が顔をあげて、「ああ」とちょっと驚いた声を出した。
 今日、狩谷が出社することを知らなかったらしい。
 瀬田川の目元は、わずかに腫れていた。今まで涙をこらえていたのか、それとも泣いていたのか、整った涼しげな顔立ちに、ほんの少し朱色がさしている。
 芸能人にも負けない魅惑的な容姿が憂いと悲しみでくすんでいるのに、狩谷は同情ともうひとつ、人には言えない感情を抱いた。
「瀬田川もきてたんだ」
「うん。竹林(たけばやし)部長と打ち合わせが入って」
 相手が視線を外しながらそう答える。
「ああ。そうか」
 じゃあ、正式な通達があったのだ。狩谷は納得して頷いた。
 一ヶ月ほど前から、瀬田川には現在の役職であるサブチームリーダーから、チームリーダーへ昇格の話が出ていた。
 瀬田川は仕事のできる男で、人間関係も良好だから、何の問題もなくリーダーになれるだろうと、誰もがそう思っていた。
 狩谷自身は半年前に他のチームのリーダーになっていた。自分がなれるのだから、自分以上に業績を上げている瀬田川ならば軽いもんだと予想していた。狩谷と瀬田川は両者とも中途採用で、入社時期は狩谷のほうが半年早かった。自分が彼より早く出世したのは、彼より前に入社していた関係からだろう。
 しかし不運なことに、時勢が急に変わってしまった。
 半年前から世界的な規模で恐ろしい疫病が蔓延し始め、人々は今までの生活を変えざるを得なくなった。家から出ることを制限され、活動範囲も急激に狭くなった。
 経済は停滞し、世には仕事を失った人が溢れかえるようになり、開催させるはずだった世界的なスポーツの祭典も多くのコンサートや舞台や催し物も、すべて消えた。
 本来ならば夏を迎えるこの時期は祭りや観光でどこも盛りあがるはずなのに、今はSF映画の終末世界にでも飛ばされてしまったかのような、不気味な静けさをおびた日常になってしまっている。
 テレビでは連日、識者らが他人との接触を避けるようにと注意喚起をしていた。疫病を広めるウイルスから身を守るため、密な接触をしないようにソーシャルディスタンスを保つようにと。
 狩谷も自宅でのリモートワークを余儀なくされて、ここ数ヶ月は部屋に籠もりきっりで仕事をこなしていた。そして会社では、派遣社員が軒並みクビを切られていた。
 契約更新をされる人がひとりもいないという、かつてない異常な事態が発生している。
 そんな中で、瀬田川のリーダー昇格の話も流れることになるだろうという噂が狩谷の所まで回ってきた。先日のZoom飲み会の席でのことだった。
 運が悪いとしか言いようがなかった。
「仕方ないよ。時期が悪かった。瀬田川は仕事できるんだから、この騒動が収まったらすぐにリーダーになれるさ」
 励ますように明るく言うと、「え?」といささか驚いた顔でこちらを見てくる。どうやら慰められるとは思っていなかったらしい。
「ああ、悪い。聞いてたんだ」
「――ああ」
 合点がいったという顔をして頷いた。
「そうか」
 デスクに向き直り、瞳を伏せる。しかしノートPCを開くわけでもなく、デスクトップを立ち上げる訳でもない。マスクをしているから口元は見えないが、その眼差しは明らかに失望に満ちていた。
 狩谷は、同僚の消沈した姿を見ていられなくて声をかけた。
「よかったら、昼メシ、一緒に食いにいかね? 久しぶりにこっちきたから、何かうまいもん食いたいんだよ」
 自分の方も持ってきた仕事を片付けながらたずねてみる。狩谷にしてみれば、精一杯の気遣いのつもりだった。
「自炊も飽きたし、ちゃんとしたもの食わないと、栄養かたよりそう。瀬田川はどうなの? いつも何食ってんの。たしかそっちも俺と同じひとり暮らしだよな」
「ああ。うん、まあ」
 相手の答えは素っ気ない。心ここにあらずといった様子だ。
「悪いけど、あんまり食欲ないから。俺はいいや」
 即答されて、余計なお節介だったかと、応える声が尻すぼみになった。
「そか。――うん。……わかったわ」
 狩谷は自分のノートPCに向き直って、仕事を再開した。
 この同僚に話しかけるときは、何故かいつもわずかに緊張する。
 自分をよく見せたい、好かれたいという思いが自然とわいてくるのだ。それが言葉に奇妙な鎧をかぶせ、身構えた話し方になってしまう。ざっくばらんを装いながら、しかしテンションは好きな女の子を前にした中学生のようになってしまう。
 カッコ悪い所は見せたくないのに。
 自分の不器用さに内心で舌打ちした。
 狩谷だってモテないわけではない。今までにだって付き合った女の子はいた。上背もあるしジムで鍛えてるから筋肉もついている。顔も悪くない部類だと、密かにうぬぼれてもいる。けれども瀬田川のイケメンぶりは、狩谷とは次元が違う。こいつは女子社員にモテまくりで、肉食獣の真ん中に放りこまれた美味しすぎる草食動物状態となっている。
 本人は彼女らにまったく興味を示さず、いつも涼しい顔でそつなく仕事も人間関係もこなしているが、それがまた人気を呼び、瀬田川はこの会社では崇高なアイドルのようにあがめられていた。
 ――こいつ、彼女とか、いるんかな。
 画面に並んだ規則正しい数字を見ながら考える。
 もしかしたら社外にいるのかもしれない。だから誰にもなびかないのかも。
 どんな子なんだろう。瀬田川が惚れるような相手とは。
 何となく思い浮かんだ疑問が、頭の中で膨れていく。同時に、腹の奥から不思議な感覚が湧いてくる。それはずっと、狩谷が身体の奥にしまいこんでいる情動だ。
 自分は女の子と付き合える。普通に欲情するし、普通に射精もできる。自分はいたってノーマルだ。そう言い聞かせて生きている。けれど心の裏側には、もうひとつの隠された思いがある。それは認めたくないもうひとりの自身で、狩谷はずっとそいつを、いない振りでやりすごしてきた。



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