エンジェルを抱きしめる 03


 浅黒い肌の色は日に焼けたのとは少し違って見える。そういえば、顔つきもどこかハーフっぽい。
 アメリカに住んでいたということは、もしかしたらどこか外国の血が混じっているのかもしれないのかな、とそんなことを考えながら、ぼんやりと相手の手を見つめた。すると急に、目の前におかれていた指が、ピアノを弾くようにリズミカルに動き出した。
 驚いて顔をあげると、横の男がこちらを向いてにこりと笑っている。
 琳は、こっそり見ていたことがばれて恥ずかしくなって、頬を赤くした。
「そんなに見つめられると、恥ずかしくなるな」
 臆面もなく言ってくる。テーブルを指先でかるく叩きながら耳元に近づき、小声でささやいた。
「視線で、指先が焼けつくよ」
 歯の浮くようなその台詞に、けれど思わずぷっと噴き出してしまう。
 それは、さっきスタジオで琳たちが演奏したエンジュのオリジナルである『moonsand』という歌の詞の一部だった。
 敲惺は、もうすでにエンジュの歌をものにしてくれている。何度も聴きこんで、慣れていなければ、そうして好きになってくれていなければ容易く歌詞が出てきたりはしないだろう。
 それに気をよくして、琳は自分から話しかけてみたくなった。内気で、いつも打ち上げなどの飲み会では隅でひとりで飲んでいる琳にしては珍しい行動だった。
「さっき、アメリカにいたって言ってたけど、青芝くんはアメリカ人なの?」
「敲惺」
「え?」
「敲惺でいいよ。青芝くんとか、くすぐったい」
 どちらが年下なのかわからない会話に、琳は相手の年齢を一瞬忘れそうになった。グラス片手に答えてくる姿は、中身がコーラとは思えないほど大人っぽい。戸惑う琳に、敲惺は小首を傾げて優しげな視線をよこしてきた。
「アメリカ国籍と、日本国籍、両方持ってるよ」
「へー……」
 日本から出たことのない琳には、ちょっと羨ましい話だ。ドラマーのお祖父さんについてアメリカで修行していたなんて、日本の片田舎でずっとひとりで練習を続けてきた琳には、想像できない生活だった。
「祖父ちゃんと祖母ちゃんがアメリカに元々住んでて、両方それぞれに黒人とネイティブアメリカンの血が入ってたんだ」
 しげしげと見上げる琳に、敲惺はなにを訊きたがっているのか察したようで、自分の出自について話しはじめた。多分、そういった質問にも慣れているのだろう。
「……ああ、そうなんだ」
「けど、それ以外は日本人だよ」
「へええ」
「琳は?」
 え? おれ? と思わず聞き返す。生粋の日本人ですけど、と答えると「スラヴの血が入ってんのかと思った」と返された。
「目元がくっきりしてて、そんな感じ」
 頬杖ついて、甘い笑顔でくどき文句のようにささやかれる。
 琳は焦って何度か瞬きしてしまった。まるで女の子にでも言うような台詞だ。そういえば、さっきもこの男は荷物を持ってくれたりして、琳をそんなふうに扱った。
 琳は洗いざらしの髪をかきあげた。美容院には年に数えるほどしか行ってないから、前髪も伸び放題で目にかかっている。ゆるいくせ毛のせいで少しはねた毛先は、ライブのときに整える程度で染めてもいないから、地味な印象を皆に与えている。
 どのみちエンジュはビジュアルで売っている訳ではなかったし、自分はボーカルの高之の引き立て役でいいと思っていたから、アクセサリーの類はいつも控えめだったし、ファッションにも大きなこだわりはない。目は大きいとはよく言われるけれど、ハーフっぽいと評されたのは初めてだった。
 アルコールのせいではない熱が顔に上ってくるのを感じて、慌てて琳は視線を逸らした。どういうつもりか知らないが、敲惺のこの態度は、琳に変な刺激を与えてくる。
 けど、それは自分のほうが気にしすぎなのだろう。容姿についてお互い話すのは別に変わった話題ではないはずだ。
 琳が落ち着かない視線を彷徨わせると、ふと、その先に捕らえるものがあった。
 反射的にそちらに顔を向ける。すると、睨むような眼差しを投げつける高之の目とぶつかった。
 一瞬にして、顔の熱が引いていく。
 悪いことをしていたのを見つかった子供のように、後ろめたい緊張感が身体をかけぬけて、いたたまれない気分になり思わず俯いた。
「琳?」
 急に顔色を変えて黙り込んでしまった琳に、敲惺がどうしたのかと尋ねてくる。
「……なんでもない。飲みすぎたかも」
 琳は口元に手をあてて、笑顔を作って誤魔化した。敲惺がそんな琳を不思議そうに見下ろしてくる。
 顔を上げて、高之が琳を見張るように眺めているのに気づいた。
 どういうことかと目を眇る。琳が困ったように下を向いているのをのぞき込むと、もういちど顔を上げて、初見のときと同じくそちらにガンを飛ばして見せた。



 店を出た五人は、そのまま二次会に向かうこととなり、場所を琳のマンションに移した。
 途中でいくらかのアルコールを購入して、歩いて部屋に向かう。琳の住むマンションは駅近くの線路沿いにあった。
 一階のその部屋はひとり暮らしにしては間取りが広く、リビングは八畳のフローリングでその横に六畳の寝室、そして二畳の独立したキッチンとバストイレがあった。
 しかし、その広さよりも、迅と敲惺はベランダの真ん前に迫るようにしてある線路の存在に驚いたようだった。
 カーテンをしめる琳の後ろにやってきた迅が、「こんなんで、うるさくないのか?」と訊いてくる。
「防音ガラスが一応嵌ってますし、それにこのおかげで少しぐらいうるさくても苦情こないし、家賃も安いんで」
 その説明に、なるほどと頷いてみせた。
「けどひとり暮らしににしてはこの部屋は広すぎないか」
 とも問われて、琳は肩を竦めてみせる。
「おれの部屋、いつもバンドのたまり場になるんで、広いとこ借りてるんです」
「親の仕送りとか、もしかして、琳の家、金持ちとか?」
「まさか。バイトで凌いでますよ」
 苦笑しながら答えた。実際、琳はバンドの練習以外の時間のほとんどをバイトに費やしていた。高校を卒業してからは、フリーターをしながらエンジュの活動を続けている。
 リビングにはテーブルとテレビの他に大きなソファもあった。ラックには音楽関係の雑誌や書籍、CDが詰め込まれていて、その横にはパソコンとキーボードとそれに関連する機材が並んでいる。作曲するために揃えられたツールを迅は感心するように眺めた。 
「琳、なんか食い物つくって」
 後ろから純太郎が声をかけてくる。
「うん、わかった」
 高之と純太郎がテーブルに缶ビールや焼酎の瓶を並べる横を通って、琳はキッチンに入った。
 冷蔵庫をあけて、とりあえず簡単に作れそうな料理の材料をさがす。手を洗って棚からクラッカーを取り出していたら、リビングから敲惺が顔をのぞかせてきた。
「なんか、手伝おうか?」
「……え? いや、大丈夫だけど」
 クラッカーの箱を手に、キッチンには場違いなガタイの大きな男が入ってくるのを見やる。
「ていうか、料理、できるの?」
 横にきた男に尋ねると、「俺んち、海老名のはずれでバーやってるから」と返された。
「そうなんだ」
 琳がチーズやサラミやキュウリを出してきて包丁を手にすると、敲惺が後ろの食器棚から大きめの四角い皿を選んで出してきた。そこに一枚ずつクラッカーを並べていく。なにを作るのか言わなくとも、ちゃんとわかっているようだった。
「母さんと祖母ちゃんが店やってて、俺もいつも手伝ってるから」
「へえ」
 ふたりでカナッペを作りながら、話をつづけた。
「ドラマーの祖父ちゃんも一緒に?」
「いや、祖父ちゃんは俺が十五のときに死んだ。だから、日本に来て母さんと祖母ちゃんと暮らすことになったんだ。祖父ちゃんと祖母ちゃんはずっと前に離婚してたし、俺、父さんいないし、もう向こうには知り合いいなかったし」
「そっか……。いろいろ複雑なんだな。けど、ずっとアメリカにいたのに、日本語うまいよな」
「祖父ちゃんが日系だったしね。それに六歳までは母親と日本にいたし」
 彫りの深い顔立ちが、にっと笑う。事情はわからないが、わりと大変な家庭のようだ。
 琳はそれ以上、家族のことは訊かずに話題をかえた。
「でもさ、家が海老名のはずれじゃ都内まで通ってくるの大変じゃない? そんな遠いと」
 冷蔵庫から、プチトマトやマヨネーズを出しながら尋ねてみる。
「まあね。だから、いつも遅くなったらネットカフェに泊まってる」
「――あ、そうなんだ。だったら、遅くなったらうちに泊まっていけばいいよ」
「え?」
「テレビの横のカゴに、この部屋の合鍵あるから、それ、持ってっていいからさ」
 敲惺の手が止まって、しげしげと琳を見下ろしてきた。
「この部屋、いつもメンバーが泊まってってるんだ。布団もあるし、ソファでも寝れるし」
「……でも、合鍵なんか持たせていいの?」
「みんな持ってるよ。純太郎も、高之さんも。みんな遅くなったらホテル代わりにこの部屋使うんだ。確か、前のメンバーが置いてったのが、カゴにあるはず」
 クラッカーの上にキュウリや半分に切ったプチトマトをのせていると、視線を感じて、琳は顔を上げた。
 ちょっと理解できない、といった表情をした敲惺がこちらを見ている。
 なぜそんな顔をされるのか分からなくて、こっちもきょとんとした顔になった。飲みすぎて知り合いの家に泊まるなんてのはバンド仲間の間ではざらにあることだ。
「けど、そんなことしてさ、琳の恋人はなんにも言わないの?」
「えっ?」
「だって、合鍵なんか持たせてたら、勝手に部屋に入ってくるってことだろ? 困るじゃんそんなの」
「……」
 どう答えていいのかわからなくて、琳は瞳を瞬かせた。琳に恋人はいない。というか、今までいたこともない。だから、そんな心配はしたことがなかったのだ。
「気にしなくていいよ。……今は、いないから」
 『今は』と言ってしまったのは小さな見栄からだった。年下で、なんだか自分より恋愛に慣れていそうな相手に話をあわせようと、つい嘘が口から出てしまった。
 手元を忙しく動かして、誤魔化すように俯く琳に、頭上で「Uh-huh(ふーん)」と頷く声がした。
「さ、できたから、向こうに持ってって」
 皿を差し出して、もうこの話は終わりというように急かして見せる。すると、敲惺は意味ありげに微笑んで、それを受け取った。 
 大皿を片手にキッチンを出ていく後姿は、鼻歌でも歌い出しそうだ。
 その機嫌のよさがどこからくるものなのか琳にはいまひとつ掴めなかったが、それでも、自分自身も同じような気持ちになっていることに気がついて、琳は慌てて次の料理に取りかかった。



                   目次     前頁へ<  >次頁