エンジェルを抱きしめる 04


 そのまま五人は、琳の部屋でまた酒を飲みながらあれこれと盛り上がり、そうして十一時ごろに迅が明日の仕事があるからと、最初に部屋を引き揚げていった。
「純太郎はどうする? 泊まってくんだろ?」
 琳が隣に座る純太郎に話しかける。
 飲みの流れで泊まっていくのはいつものことだった。
「泊まる泊まる。ノートPC持ってきたから。ここでエンジュのブログとホームページ更新して、あと今度のライブの仕事、色々するわ」
 赤い顔をした純太郎が鞄から自分のノートPCを取り出す。そこに携帯の着信音がした。
「高之のだな」
「おう。オレの」
 電話を手にして、高之は皆が座ったテーブルに背を向けて相手と話しはじめた。しばらくしてそれを終えると、おもむろに立ち上がって言った。
「悪い。呼ばれたから、今日はもう行くわ」
「あそ。また女?」
 純太郎が焼酎片手に醒めた目で見上げる。
「高円寺のお店の菜穂ちゃん?」
「いや。ちがう。また別の」
「あれ? 菜穂ちゃんとは別れたのか」
「いや、まだ別れてない」
 おまえー最低だな、と純太郎が呆れると、それに笑って、「歌は最高なのにね~」と答えながら高之は手を振って玄関に向かっていった。
「あの女癖の悪さは病気だな」
 そう言う純太郎に苦笑して見せた琳は、立ち上がって高之の後を追いかけた。
 玄関でスニーカーをはいていた高之の後ろに近づくと、少し遠慮がちに声をかける。
「あの……高之さん」
「ん?」
 振り向いた高之に、琳は俯いて目をあわせないようにして用件だけを伝えた。
「明日、三時からボイトレ、入ってますんで」
「ああ。そうだったけか。忘れてたな。わかった、今度は遅刻しないようにちゃんと行くよ」
 琳がほっと笑顔になると、高之が酔いの回った眸で見つめてきた。
「大丈夫だよ。もう、黙ってサボったりしねえから」
 それに安心して頷く。と、高之が右手をあげて琳の頬に触れてきた。思わずぴくりと反応する。
 高之が口元を歪ませるようにして笑った。
「新曲、できてる?」
 ゆっくりと撫でるようにしながら、そのままうなじに指先を潜ませてきた。
「……もうすぐ、です」
「そうか。楽しみにしてるよ。今度のライブで歌いたいからさ」
 高之の指先が琳の首元をくすぐる。どうしていいのかわからず、琳は身体を強張らせて高之に作り笑顔を向けた。
 高之が酔ってこんなふうに戯れてくるのはよくあることだった。
「新曲できたら、またふたりでスタジオ借りて練習しような」
 顔をよせてささやかれ、琳は抗うこともできずにそれを聞いた。
 高之の声は優しい。どんなにふざけていようとも、毒を含んでいようとも、琳に対する愛情が欠片もなくとも、いつも甘くて痛みを伴う。
 じゃあまたな、と高之が玄関から出て行って、そこではじめて琳は開放されたかのように大きく息をついた。
 踵を返して、リビングに戻ろうとすると、やってきた敲惺と出くわした。手にはショルダーバッグを持っている。
「帰るの?」
「うん。終電まだ間に合いそうだから」
「泊まってけばいいのに。純太郎も泊まってくよ」
「――いや。今日はいいや」     
 琳の目の前で、スニーカーに足を突っ込む。振り返って、ちらとだけ視線をよこしてきた。
「んじゃ。またこんど練習の日に」
 そう言って笑った相手の目は、ほんの少しだけ何かに失望したように、残念そうだった。
 その理由はわからない。
 だから琳はただ、敲惺がドアから出て行くのを黙って見送った。



 数日後、メンバーは練習のために、またこの前と同じスタジオに集まった。
 新生エンジュは、来月に初ライブを控えていたので二時間の音合わせをみっちりと行った後に、反省会と今後の予定を立てるため、また琳の部屋で夕食を一緒にとることになった。
 この前は歓迎会だったので一次会は外の店にしたが、エンジュは基本的に練習後は琳の部屋でそろって夕食を囲むことにしている。
 家飲みで経費を節約するためと、メンバーの結束を少しでも高めるためだった。
「琳、今日の夕食なんにするの?」
 琳の部屋まで四人で歩いていく途中で、高之が訊いてきた。純太郎だけは車で機材を運んで、先にマンションに向かっていた。
「人数多いから、鍋でもしようかなと」
 琳が答えると、高之は横にやってきて、肩に手を回して猫なで声を出した。
「俺、琳の作ったピザが食いたい」
「あ……。ピザですか」
 高之はピザが好きだったから、琳は昔から高之が食べたがると、よく作ってやっていた。ネットで生地の作り方からレシピを調べて焼くようになって、今では大分腕も上達している。
「琳がぜんぶ手作りしたやつ。生地もソースも」
 ちょうどその時、琳の横には敲惺がいた。ふたりで新曲のアレンジについて、話していたところだった。それに割り込むように入ってきて、高之は琳に凭れるようにして我儘を口にした。
 敲惺はそんな高之を横目で窺っていた。
「……わかりました。じゃあ、今日はそれにしますから」
 肩に回された手を、さりげなく外すようにして聞き入れる。敲惺が見ていると思ったら、高之に懐かれるのを重荷に感じてしまった。
 今までは、くっ付かれれば緊張してドキドキすることはあっても、そんなことは考えたことなかったのに。
「えと、それなら、材料班とアルコール班にわかれて買い物行きましょうか」
 琳が提案すると、酒好きの高之は琳から離れて、迅と組んで酒屋に行くと言い出した。自分の飲みたいアルコールは人任せにできないらしい。琳はそれで、ほっと一息ついた。
 自然と、飲めない敲惺は、琳と一緒に食材の買出しにいくことになった。高之らと別れ、話題をもう一度、曲のことに戻して、ふたりで話しながら駅前のスーパーに向かう。
 店に入ると、カゴを手にしてあれこれと食材を投入していった。
「敲惺はピザ好き?」
 パプリカを手にして、赤にするか、黄色にするか迷いながら隣の男に問いかける。
「大好き」
「そっか。ならよかった」
 その答えに安心して、琳は笑顔になった。男にしては小柄な琳が買い物カゴを掲げて、野菜を手にした姿を、敲惺は興味深げに観察する。
「食べたいものあったら、カゴに入れなよ」
 自分とは二十センチは差のありそうな背の高い男にそう言うと、「琳はカゴに入らないじゃん」とかるく返された。
 両手にパプリカで、「え?」と固まると、敲惺はそれを困ったような笑顔で眺めてきた。
 ほんの少しだけ戸惑うしぐさを見せてから、やっぱり我慢できないといった感じで口をひらく。
「あのさ、琳」
「……うん」
 スーパーの中は夕暮れ時の買い物客が多く、館内放送も途切れず流れていた。ふたりの会話もそれに紛れがちになる。
 流れるように客たちが追い越していくなかで、敲惺は改まった口調で告げてきた。
「やっぱり、最初に言っておいたほうがいいと思うから、琳には伝えとくけどさ」
「……うん」
 それでも軽く、打ち明ける。
「俺、ゲイなんだ」
「え……」
 返す言葉もなく、その場に立ち尽くした。
 スーパーのカゴを脇にさげて、両手にカラフルな野菜をつかんで聞くにはあまりにも突拍子もない告白だ。
 敲惺は意味深な笑顔で見下ろしてきている。彫りの深い顔立ちに、甘いマスク。とても年下には見えない余裕で、自分の性癖についてこんな場所で暴露してきた。
 けれど、重く捉えて欲しくなくて、わざとこんな騒々しいところで言ってきたのだとしたら、琳もさりげなく対応すべきなのかもしれなかった。
「あ……そうなんだ」
 口元を、なんとか力ずくで持ち上げて、笑ってみせた。敲惺は少しはにかむようにして、琳の反応を窺ってきている。
「そのこと、覚えておいて」
「あ……う、うん。わかった……」
 パプリカを両方、棚に戻して、しどろもどろに返事をする。琳がその場から離れて歩き出すと、敲惺が赤のパプリカをひとつつまんで、後ろからカゴに入れた。
 そのまま黙って、うるさい店内を先に進む。さっきまでなにを買おうか考えていたのに、それもぜんぶ頭の中から飛んでいってしまった。敲惺がどういうつもりで、今ここでそれをカムアウトしてきたのか、それがよくわからない。
 琳はこれ以上、どう会話を持っていったらいいものかと悩んでしまった。
「あ、あのさ」
 焦って、つっかえるようにして隣を見上げると、敲惺は琳が話し出すのを待っていたらしく、うん、と言うようにして先を促してくる。
「このこと、他の人、知ってるの?」
「知り合いには、知ってるヤツもいるかな」
「あ、あのさ。敲惺はさ、その、知り合った人にはいつもそうやって最初にカムアウトするの?」
「まさか。ちゃんと人を選んでしているよ」
「じ、じゃあ、なんでおれには言ったのさ?」
 衝撃的な告白に動揺してしまったのには、それなりの訳がある。 
「琳ならわかってくれると思って」
「それって、どういう……」
 そこまで喋って、口を噤んだ。それ以上は訊けなくなってしまい、その場に立ち止まる。
 自分はそんなに分かりやすい行動を取っていただろうかと、琳は思わず考え込んでしまった。いつも気をつけていたつもりだったのに。
 けれど敲惺には最初から親切にされて、優しくされて、女の子のように喜んでしまっていた。だからバレたんだろうか。
 視線を床に落として、琳はぼそりと呟いた。
「……じゃあ、おれのことも、そうだって、分かったんだ」
「うん」
 敲惺は、横の棚からスナック菓子を手に取ると、眺めまわしてから、それもカゴに入れた。
 芸能界や、芸術方面の仕事をする人の中には、そういった性指向の人が多いということはよく聞く。
 そして、琳もそういう人間のうちのひとりだ。しかし、琳は今まで自分以外にそんな人に出会ったことがなかった。自分のことは誰にも知られたくなかったから、同じ性癖の人らと積極的に知り合おうと思ったこともない。
 琳が今まで一緒に活動してきた歴代のエンジュのメンバー達も、女の子にモテることに夢中で、そんな雰囲気を感じさせる相手はひとりもいなかった。
 そうして、琳は今までに誰にも、家族にもカムアウトはしていない。
 ただひとり、琳がそうだと気づいているだろう高之以外には、誰も。



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