エンジェルを抱きしめる 05


「琳」
 優しく声をかけられて、顔を上げる。
「大丈夫?」
 気遣う声音に、胸がきゅっと詰まった。
 敲惺は、出会ってすぐに琳が仲間だと気がついた。琳のほうは、なんだかちょっと変わった奴だな、と思った程度で、それ以上はよくわからなかった。敲惺は仲間同士の付き合いにも慣れているのかもしれない。
 けど、そんな相手がエンジュにやってきて、なにも経験のない琳はどうしていいのかわからない。
 少し混乱した面持ちで首を傾げてしまうと、敲惺が心配げに見下ろしてきた。
「困らせるつもりはないんだ。ただ、琳には知っておいて欲しかっただけ」
「……うん」
 それでも冷静ではいられない。敲惺がゲイだとすると、バンドの中で自分には手の余る厄介な問題が生じることになる。上の空のまま、琳は残りの買い物を済ませて敲惺とともに店を出た。
 薄暗くなりはじめた商店街を抜けて、マンションに向かいながら、やはり言っておかなければならないな、と思った琳は、改めて口をひらいた。
「ひとつだけさ」
「ん?」
「ひとつだけ、頼みがあるんだ。……それを聞いておいて欲しい」
 真面目な話し方になった琳に、前を歩いていた敲惺もどうしたのかと足を止める。
「うん。なに?」
「そのことを、高之さんにだけは、絶対に知られないようにして欲しいんだ」
「うん? ……なんで?」
「あの人、ホモとかゲイとか、オカマとか、そういうの、死ぬほど嫌ってるから」
 敲惺は奇妙な顔でそれを聞いた。なにか言おうとして、口をあけてみせてから、そのままの格好で固まる。
 琳が申し訳ないという表情をすると、それ以上は喋ろうとしなくなった。
 高之は、同性を好きになる人間を毛嫌いしている。それはずっと昔からだ。なぜ嫌悪するのか、その理由はわからない。多分、根拠なき差別に近いものなんじゃないかと琳は考えている。
 自分と違うものを受け入れられない人なのだと、琳自身は諦めているが、もしも新しくきたメンバーがゲイだと知ったら、どうなるのか。
 やっと形を持ち始めた今のエンジュを、失うようなことはしたくない。
 メジャーに手が届きそうな所まできているのに、バンド内のごたごたで、また全てを手放すなんてことはもうしたくなかった。
 敲惺のドラムも、迅のギターも、今までのメンバーの中で一番いい。そうして、高之のボーカルとしての資質は他に類を見ない位、琳の作る歌にあっている。
 琳の望みはただ、en-jewelをメジャーデビューさせることだけで、それ以上に大切なものなんて今はなにもなかった。
 だから、このことは高之には絶対に知られてはいけない気がした。



 部屋に戻った琳は、リビングで早々にアルコールをあけながら反省会をするメンバーを横目に、ピザの準備をしながら、さっきの敲惺の言葉をなんども思い返していた。
 高之が、このことを知ったらどうなるのか。そのことが心配だった。
 新しく入ったメンバーに自分の嫌う性癖の人間がいると気づいたら。高之のゲイ嫌いは顕著で、ライブにきてくれるファンの中にオカマの子が混ざっているだけで、陰でその子らのことをひどく罵るほどだ。
 世の中には同性愛者に対して嫌悪感や拒否反応を示してくる人たちがいる。
 高之も同じ種類の人間らしく、男が男を好きになることをまったく理解できない性質だった。ただ闇雲に、信じられない、気持ち悪い、近よってくるなという怒りの言葉を繰り返す。そういった人たちを、ほとんど生理的に受けつけないらしかった。
 それでも、琳だけは傍においてくれている。それは多分、エンジュの中で作詞作曲を担当する琳が必要だからだろう。高之が、心の中では琳のことなどなにも思いやってくれていないことは、自分でもよくわかっている。
 けど、琳にしたって高之は必要なのだ。
 高之のボーカリストとしての才能は優秀だ。声もいいし、外見もすごくいい。ライブでステージに立てば、その瞬間から空気を変えるほどの存在感を出す。メジャーデビューを目指すなら、どうしたって、高之の傍にいたい。
 今までのエンジュだって、それなりに人気はあった。インディーズの中では有名なバンドで、ライブで人も呼べている。
 その八割は高之目当ての女の子だったけれど、それでも、コンテストでは入賞していたし、その時の審査員だった大手レコード会社プロデューサーの大久保にも目をかけてもらえて、メジャーデビューの話も具体的になってきている。
 けれど、その一番大切な時期に、三人のメンバーが突然ぬけてしまった。
 純太郎が拝み倒して、なんとか四枚目のCDのレコーディングまでは残ってもらったけれど、それが終わったとたんに、すっぱりと辞められた。
 理由は明白で、高之と、性格が合わなかったからだ。
 音楽性の違いや、人間関係でバンドから人が脱退したり、グループ自体が解散してしまったりはよくあることだけど、エンジュは特に人の出入りが激しい。
 en-jewelに人は居つかない。それはバンドができた五年前から変わらないことだった。
「ピザ、焼けた?」
 オーブンから漂ってきた匂いにつられて、敲惺がキッチンに顔を出してくる。
「あ、うん。もうすぐ一枚目が焼けると思う」
 冷蔵庫の上にのったオーブンに顔をくっつける様にしてのぞき込むと、敲惺は「すげー美味そう」と嬉しそうに言った。
 それにこっちも笑顔になる。冷蔵庫からコーラのペットボトルを取り出すと、リビングには戻らずに琳の横で飲みはじめた。 
「エンジュの歌はさ、あれ、琳がぜんぶ作ってるの?」
「うん。そうだよ」
 発酵させるために寝かせておいた生地を手にして、調理台の上にのばしていく。
「高之さんが作ってたことも以前はあったけど。今はおれだけかな」
「そうなんだ。あいつも作ってたのか」
「……あいつって呼ぶのは、やめてくれないかな」
 躊躇いがちな視線を相手に向けて、けれど、ここはけじめだからと、はっきり注意した。
「一応、高之さんのほうが、敲惺よりずっと年上なんだしさ」 
「ああ」
「高校とかでさ、先輩後輩の関係って習わなかった?」
 十五までアメリカにいたのなら日本のしきたりとかよく分からないかもしれない。けれど、もうすぐ十九なら高校を出てるのだろうし、そういうことは少しでも学んできているはずだ。
 敲惺はペットボトルから口を外すと、小さく肩を竦めた。
「俺、高校行ってないし」
「え?」
「合わなくて、一週間で辞めた」
「ああ……。そうなんだ」
 悪いこと聞いちゃったかな、と後悔して相手に目をやれば、気にすることなくコーラを飲みながら調理台に並んだ材料を手にしたりしている。
 なんだか驚かされることが多いと思いながらそれを眺めた。十五でアメリカから日本にやってきて、その後はずっとドラム一本でやってきたのだろうか。だとしたら、それもすごいことだと感心する。ちゃんとした覚悟がないと、音楽をメインに食っていこうとするのは、大変なことだ。
 そのとき、背後で、ピピッとオーブンが鳴った。
「焼けたよ」
「あ、ああ、うん」
 皿に焼きたてをのせようとしたら、横から手が出てきて熱いピザをするりと皿に移してくれた。
「あ、熱くないの?」
「慣れてる」
 にっと笑って、片手だけで大皿を持ってキッチンから出て行こうとする。
「……」
 やっぱりちょっと変わった奴だな、と思ってしまった。琳が注意したことも、高校を出ているとばかり思って言ってしまった台詞にも、気を悪くした様子は微塵もなかった。
「琳」
 呼ばれて、顔を上げる。敲惺がどうしたのかと言いたげな表情で、振り返っていた。
「こっち来なよ。一緒に食べようよ、できたてのうちに」
「ああ。……いいよ。おれは、次の焼かないといけないし」
 家庭用のオーブンで五人分のピザを焼かなければならないから、一度には無理だ。いつも四、五回に分けて焼くから、琳はキッチンに篭りきりで、最後に残った分を食べていた。
「なんで? そんなん後でいいじゃん。琳はみんなのママじゃないだろ。一緒に食べよ」
 それが当たり前だというように誘われて、ちょっと目を瞠った。
 今まで琳は、エンジュの中でいつも一番年下で、使われることに慣れていた。
 料理をするのも部屋を提供するのもその延長で、それでバンドがうまく回るならそれでいいと思っていた。作詞作曲を担当しているからといって、自分がエンジュを支えてるとか、それで大きな顔をしているつもりはなかったし、メンバーに疎まれたり妬まれたりするのも嫌だったから、言われたことには言いなりだった。
 そうして、今までのメンバー達には気を遣ってもらったり、優しくされたことはなかった。要は体のいいパシリ要員だ。
 身体も小さくて音楽以外では自己主張も強くない琳はいつも、創り出す曲の出来がよければ良いほど、なぜかメンバーとは距離をおかれてしまっていた。
 けど、敲惺は手を差し出して、そんなことする必要ないと言ってくれる。それは敲惺のほうが年下だからそうしてくれている訳じゃないだろう。その、自然な思いやりが心に響いた。
「……うん、ありがと」
 手についた粉を払ってキッチンを出ようとする。
 そんな琳を、敲惺は「なんでお礼なんか言うの? 日本人のそういうとこ、わかんねえなあ」と不思議そうに首を傾げてみせた。



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