エンジェルを抱きしめる 06


 十一時過ぎになって、この前と同じように、迅が明日も仕事があるからといって帰っていった。
 高之も学校の課題が残っているからと告げて、その日は遊びにも行かず琳の部屋を後にした。残った純太郎は、今日もまた琳の部屋に泊まるつもりらしく、自分のノートPCを鞄からテーブルに出してきた。
 琳と敲惺は片づけをすませて、飲み物だけを持ってリビングに戻った。
「酔ってる時にブログ更新すると、ぜってー誤字があるんだよな」
 スマホ片手にツイッターも打ち込む。どちらもエンジュの活動情報についてだった。
「今週の日曜日、今度のCDのジャケットの写真撮影するからな。てか、みんな知ってるよな?」
「みんなって、もういないじゃん」
 琳が純太郎の横に腰かけて、モニターをのぞき込む。敲惺は向かいのソファに深く座って、ふたりのやり取りを眺めた。
「一応、メッセージ回しとくか。高之が忘れそうだ」
「CDの発売はいつになるの? 次のライブ?」
 純太郎の隣で、持ってきたウーロンハイを飲みながら琳は尋ねた。
 エンジュのスタッフとして、裏方の仕事をすべて請け負っている純太郎は、練習のある日はたいてい琳の部屋に泊まってバンドの雑用をこなしていく。琳もひとりでいるよりは楽しいので、夜通しその横で作曲したり編曲したりして一緒に過ごすことが多かった。
 自然と、エンジュの中でも純太郎とは一番仲がよくなり、今では心置きなく色々なことを話せる間柄になっていた。
「それに間に合わせたいんだよ。ホームページで告知しちゃってるしさ。ファンにお知らせメールも送っちゃってるし」
「何枚作るんだっけ」
「三千枚。ライブで頑張って、売ってくれよ」
「配信は?」
「するよ~。あんま金にならないけどな」
 それに敲惺が口を挟んできた。
「エンジュはインディーズレーベルとの契約の話とかないの?」
 二人そろって、顔をあげる。焼酎片手に、純太郎がそれに答えた。 
「あるよ。けど、断ってる。エンジュのCDはすべて自分らの自主製作盤だけなんだ」
「なんで契約しないの?」
 インディーズレーベルとは、メジャーと呼ばれる大手のレコード会社や、主流の物流システムに乗らずアーティストやプロデューサーが独自に立ち上げるレーベルのことで、規模も小さくアマチュアでも簡単に始めることのできる小さなレコード会社のようなもののことを言う。最近では、インディーズレーベルでもメジャーに負けないくらいの売り上げを見せるアーティストもいるが、それはほんの一握りの成功者で、多くの数え切れないインディーズバンドは陽の目を見ることなく細々と活動を続けている。しかし、やりたい音楽があるのなら、メジャーに拘らずとも自由度の高いインディーは、時流に乗れば大きな結果を出せるのだった。
「俺が大学卒業したら、レーベル立ち上げて、そこからエンジュをデビューさせるためだよ」
 純太郎が酔いの回った顔で、グラスを掲げてみせてくる。その横で、琳が不満げに口を尖らせた。
「純太郎、今年も留年してっじゃん。いつ卒業できるんだよ」
 それに、「お前な~」と拳を作って、琳の頭をぐりぐり押さえてきた。痛いよ、と笑いながら琳もそれに応戦する。そんなふたりを敲惺が物珍しげに見てきた。
「まあ、それは置いといてだな。エンジュの目標はメジャーデビュー、だからだよ」
「メジャーだけ?」
「うん。俺はインディーズでも拘らないんだけど、琳と高之がそれじゃ嫌なんだってよ」
「へえ」
 ソファに腰かけたまま、ペットボトルのコーラを片手に琳のほうに視線を向けてくる。
「おれの夢はメジャーデビューだよ」
 琳は飲んでいたウーロン杯のコップをテーブルに戻すと、傍にあるテレビのスイッチを入れた。
 その下のテレビボードに収まるデッキに手を伸ばす。カチャカチャとなにか操作すると、突然、テレビの画面が切り替わり、どこかのフェスのライブビデオが途中からの状態で始まった。
「今年の夏フェスだな」
 振り返って画面を見た純太郎が呟く。
「うん、そう。これ良かったよね」
 琳がうっとりした表情で、ビデオを観はじめた。テレビ画面では、数万人規模の観客がステージに向かって手を振りあげている。
 ステージ上では、メディアでも有名なロックバンドが登場したところだった。
「おれもこんなふうになりたい……」
 琳の言葉に、敲惺もテレビの中のアーティストに目をやった。ファンの歓声の中、ボーカルがマイクを手にメンバーたちになにやら話しかけている。
「琳の作る曲なら、メジャーでも十分通用するよ、きっと」
 純太郎が、琳の横で頬杖ついてもう一度、拳で頭を押してきた。
「だから俺も、ボランティアでマネージャーやってんじゃないの」
「敏腕マネージャー、滝純太郎だもんね」
 テレビの中で、バンドの演奏が始まった。観客の叫びが、ひときわ大きく響きわたる。
「まあ、メジャーでデビューしてアルバム数枚出したら、俺の作るレーベルに戻ってこればいいさ。それで皆でウハウハになるぐらい儲けよーぜ」
 純太郎が、ウハウハと笑ってみせる。そうしてから、飲みかけの焼酎を手にした。
「エリシオンの大久保さんが、エンジュを社内で推してくれている。今のメンバーが安定するようなら、新人発掘会議で俺らのこと取り上げてくれるって言ってるんだ」
 敏腕マネージャー純太郎は、大手レコード会社のプロデューサーとも頻繁に連絡をとって、エンジュを売り込んでくれているのだった。
  純太郎が敲惺に、いつになく真剣な表情をみせる。
「だからさ、エンジュがこの先どうなるかは、敲惺くん、――きみと迅さんにかかってるんだよ」
 敲惺がそれに頷いてみせた。 
「琳の作る歌と、高之のボーカル。これでen-jewelはメジャーの頂点を目指すんだ」
 グラスを持ち上げて、純太郎が説明する。
 夢は大きいほどいいというが、果てしない未来だなと、琳はそれを聞いて思った。敲惺はどう思っているのだろう。できっこない、無理な幻想だと呆れているだろうか。
 敲惺はそれを黙って聞いていた。けれど、こちらを見つめる眼差しは優しかった。琳がそうしたいというのなら、その手助けをするのは、きっと楽しいことだろう。その瞳はそう語っていた。 
 琳はなんだか敲惺の表情を急に眩しく感じてしまい、思わず目を逸らした。
 アルコールのせいか、頬に熱が上がる気がする。そうして、さっき敲惺がしてきた告白を思い出した。
 ――俺、ゲイなんだ。
 心臓が鼓動を早めてくる。
 収まって欲しいと思っても、まるで駆け出すみたいに早鐘を打ちはじめた。
 敲惺に、顔を上げることができなくなる。その気持ちを誤魔化すように、琳は手元にあったグラスを引きよせて口にした。
 どうしよう。さっきのカムアウトに触発されて、こっちもなんだか変な気分になってきた。琳は敲惺と同じ種類の人間だ。けれど、琳はそれを誰にも言ってないし、言うつもりもない。
 なのに敲惺は軽く告白してきて、そのせいで琳の心にその言葉は、すとんと落ちてきてしまった。
 敲惺が、うちのバンドにきてくれたことが嬉しい。そう思いはじめている。
 仲間ができて、そうして同じ夢を追えることが、これから先きっと、たくさんのことを話し合えるだろうことが、すごく嬉しい。
 けれど、そう思ったのと同時にゲイを嫌悪する高之の顔も思い出されて、琳は一瞬にして気持ちが沈んだ。
 敲惺のカムアウトのことは隠しておかなければならない。
 バンドをうまく回すためには、絶対に知られないほうがいい。敲惺ほどの腕のドラマーがまたすぐに見つかるとは思えなかったし、けっきょく、誰がきたって高之は自分が気に入らなかったら追い出そうとするのだ。今までのメンバー達のように。
 レコード会社のプロデユーサーがわざわざ推薦してくれたドラマーを気にくわないと言って追い出したりしたら、本当に、この先メジャーデビューなど後押ししてもらえなくなるだろう。
 今は大切な時期だから、なんとか波風立てずに上手くやっていきたい。
 琳はため息とともに、テレビの中で熱唱するメジャーバンドの演奏を、遠いものを見るようにぼんやりと眺めた。



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