夜明けを待つベリル 01


 相手の顔をみた瞬間に、――あ、あの時の彼だ、とすぐにわかった。
 端整だが、きつめの個性的な顔立ちは忘れようがない。
 あけたドアから事務所に入ってきた彼は、こちらを認めてかるく頭をさげる。
 予想していなかった再会に、采岐遙士(さいきはると)は息をのんだ。
 汚れた紺色の長袖Tシャツに穿き古したデニムパンツ。額に巻いていたタオルを外して、噴きだす汗をそれで拭ってみせてくる。首には目を守るための保護ゴーグルがぶら下がっていた。
 薄汚れた作業服を着ているのに、背が高く、面立ちが整っているせいで、その仕草さえ様になって見える。遙士は心臓が脈打つのを感じた。
 六月下旬の蒸し暑い日、『坂井ガラス工房』の事務所の中は冷房が効いて涼しかったが、隣の工房は室温三十五度は越えていると聞いた。
 真夏のさなかのような作業場から出てきた男は、止まらない汗を首にかけたタオルで何度も押さえる。ふたえの切れ長の目元は、左眉の端が少し欠けたようになっていた。
 目の下にも小さな古傷がひとつ。それを見て、やっぱりあの時の彼だと確信した。
 半年前、雪の降る路上で意識を失くしかけて倒れているところを助けた男は、同じ場所から血を流していたはずだった。
 以前に会ったときには知らなかった彼の職業は、ガラス職人だったらしい。あの時とはまったく違う様相に、遙士はその場に立ちつくして近づいてくる男を眺めた。
「采岐さん、こちらがうちの担当になります、職人の充家(みつや)です」
 隣に立った、この工房の責任者である坂井(さかい)が男を紹介し、遙士はハッと我に返った。
 四十過ぎの恰幅のいい職人である坂井も、さっきからずっと滝のような汗を滴らせている。
「あ……。はじめまして」
 頭をさげて、相手の姿を不躾にならない程度に眺めまわした。
 自分のことを覚えているかを確認する。目の前まできた充家と呼ばれた職人は、初対面の人間にするように、少し観察するような視線をよこしてきた。
「どうも。はじめまして」
 答えながら、笑顔の一つも見せないところをみると、どうやら覚えていないらしい。相当人見知りなのか、または気難しい性質らしく、にこりともしない。
 遙士は微笑みながら挨拶をかえし、その姿を再度、ゆっくりと眺めた。
 歳の頃は二十過ぎ。自分とほぼ同じに見える。背は遙士よりも五センチほど高そうだ。短い髪に険の立った顔つき。整っているが、愛想の欠片もなく、けれど見おろしてくる瞳には人を見くだすようなものは感じられず、どちらかといえば憂いを帯びている。
 真面目そうだけれど、人間関係は上手く築けない。そんな印象を受けた。
「充家です。よろしく」
 目が合えば、相手はビジネスライクな表情を向けてくる。それにこちらは重ねて笑顔で返事をした。やはり遙士のことは覚えていないらしい。
「一ノ宮大学、構造化学研究室所属の采岐です。宜しくお願いします」
 挨拶がすめば、隣の坂井が首にかけたタオルで顔を拭いながら言ってきた。
「じゃあ、あとのことは担当の彼にまかせますんで。なにか不都合があったら、こっちまでお願いしますね」
 それだけ告げると、自分の役割は終えたというように、忙しいのか事務所をでて灼熱の工房へと戻っていった。
 あの蒸し風呂にまたかえるのかと、後姿を大変だなあという思いで見送っていたら、隣の男に「こちらへどうぞ」と促された。
「あ、はい」
 あとをついていくと、事務所の隅にパーティションで区切られた、応接セットのところへと招かれる。
「ここで、ちょっと待ってて下さい」
 遙士にソファを示し、自分は事務所の奥へと引きかえしていった。その場に残された遙士は応接セットと、奥にある飾り棚のほうへと目をむけた。
 棚には、ここ『坂井ガラス工房』で作られたいくつかの作品が飾られてある。花瓶やグラス、皿にオブジェ。どれも色鮮やかで美しい工芸品だった。
 近づいて、しげしげと眺めまわす。作品の横には工房の仕事内容が書かれたプレートもおかれていた。オリジナルのガラス製品の販売と、オーダーメイドで建築用デザインガラスその他を請け負うと記されている。この工房は遙士の通う一ノ宮大学から車で五分。教授に頼まれごとをされなければ、ここにあることさえ知らずに過ごしたであろう場所だった。
 工房には職人は確か五人いたはずだ。展示品には製作者の名前も掲げられているが、充家という名のものはなかった。まだ若いから、下っ端なのかなあ、などと考えていたら本人が戻ってきた。手に500mlペットボトルの冷茶をふたつぶら下げている。それを、ローテーブルの上においた。
「どうぞ」 
 勧めながら、向かいのソファに腰をおろす。遙士も腰かけて、ショルダーバッグから用意してきた紙の資料を取りだした。
「これが、今回こちらから依頼する、化学実験用のガラス装置の回路図です」
 端をそろえてから目の前に座った男に差しだす。
「真空装置なので、この前、電話でもお伝えしたとおり、材料は全てパイレックスでお願いします。材料は手配してありますので、普通のガラスは混じらないようにしてください」
 わかりましたと答えて、充家が資料を受けとる。ペットボトルのフタをあけて、クリップで留められた紙束を手にした。目を書類に落としながら、一気に一本、音をたててボトルを潰しながら空にする。遙士はそれを呆気に取られながら見つめた。
 まあ、あの熱のこもった工房で作業をしているのなら、そうもなるんだろうなと思いながら、半年前に雪道で助けたときには死んでいるのかもしれないとさえ思えた男が、今、目の前で元気でいてくれることに安心もした。
「あ、これ」
 遅ればせながらと、男が自分の名刺を差し出してきた。
 両手で頂戴しながら、遙士は「僕のほうの連絡先は資料の最後に、電話番号とメールアドレスが記してありますので、連絡はこっちにお願いします」と、資料を指さして伝えた。
 手の中の名刺には、『坂井ガラス工房 充家一征(みつやいっせい)』とある。裏返せば、手書きの電話番号とアドレスがしたためられていた。
「俺の方は連絡はそこにください。事務所にもらってもいいけど、いちいち取り次ぐのが面倒なんで」
 了解です、と返事をして、さっそく仕事の話に取りかかる。遙士は自分の分の資料を手に説明をはじめた。
「ええと。この実験装置は基本的に、ガラスパーツを組み合わせて、くっつけていくだけです。なんですが、回路が複雑だし、教授の実験方針が変わると、その度に変更が出るので、途中で何度かお手を煩わせることになると思います。ですから、そこのところはあらかじめ了承しておいてください」
「ああ。聞いていますから、それは」
「五年前にも、うちの研究室の仕事を請けて下さったんですよね」
「らしいですね。そん時、俺はまだいなかったけど」
 資料から目を離さずに言ってくる。紙の設計図には、迷路のような複雑な装置がたくさんの数字とともに記されていた。完成すれば、畳二畳分ほどになる、大掛かりな実験装置だった。
 遙士の所属する一ノ宮大学構造化学研究室では、ガラス配管を組み合わせた実験装置を使って、ガスと触媒の反応試験を日常的に行っている。
 実験室には複雑に絡みあった実験装置が三台あるが、そのうちの一台を、今回、教授の研究方針の変更に伴い、新調することになった。
 一ノ宮大学にもガラス工作室という部署はあり、ガラス器具を製作する職人が二人いるのだが、今回のものはあまりに大きすぎて、時間的余裕がないということで断られていた。
 教授と学生で時間をかけて組み立てていくという方法もあったが、半年後の遙士の卒論に間に合わせたいのと、教授の論文発表の予定が押していたということもあって、教授は外注することに決め、その担当を大学院の二年生である遙士に任せたのだった。
 この装置が完成すれば、遙士はそれを使って卒論を書くことになる。装置についてよく理解できているから適任と判断され選ばれていた。
 依頼の装置についてあらかたの説明が終わり、その日の打ち合わせは終わりとなる。
「それじゃあ、原料が届きしだい連絡ください。そうしたらまた、細かい説明に伺いますんで」
 にっこりと笑顔を作って伝えた。これから一緒に仕事をしていく仲だ。印象はよくしておきたい。
 それに相手は、ちらとだけ目をくれると、すぐ視線を下に向けてしまった。
「わかりました。連絡はメールでします」
 はい、ともう一度爽やかに見えるであろう自慢の笑みをむける。けれど、充家は資料から顔を上げなかった。
「……」 
 仕方なくソファから立ち上がる。充家もそれに続いて、資料を手に応接間を後にした。
 端整な顔立ちの男は、打ち合わせの最後まで笑みのひとつも見せなかった。渡した資料に注意がいっているのか、遙士の顔をまともに見ようともしない。
「じゃあ、お願いします」
「わかりました」
 挨拶して、頭を下げ事務所を出れば、充家はもう用は済んだとばかりに工房の方に足を向けていた。遙士を見送りもしない。
 ――あんな感じの男だったんだ。
 その後ろ姿を見ながら、遙士は何となく気が抜けたようになっていた。
 偶然の再会に、こっちは勝手にまた会えたことを喜んでしまって、無意識のうちに親近感を持って接しようとしていたらしい。向こうは全く自分を覚えてなどいなかったというのに。
 覚えていないのなら、彼からみれば遙士は初対面の他人に過ぎないのだ。
 今から六ヶ月前の寒い雪夜、遙士は車を運転中、道端で倒れていた男をみつけて、自分の車に乗せ病院まで連れて行っていた。救急に運び込んで治療を受けさせ、けれど急いでいた遙士は、朦朧としていた男の意識が戻る前に病院を後にしていた。
 その男が、多分、さっきの彼なのだ。
 しかし冬の夜の衝撃的な出会いも、本人の記憶にないのなら、なかったも同じこととなる。
 ならば別に、遙士からその話を持ち出すことはないかと思った。一緒に装置を仕上げるにしても、短い付き合いにしかならないのだろうし、今更、あのことで恩を売るつもりもない。
 ――まあ、職人なんだから、あの態度にしたってそんなものなのかもしれないな。
 仕事さえきちんとしてくれれば、別に人柄は問題ない。トラブルなく仕上げてくれれば、こっちの卒論も早めに取りかかれるというものだ。
 深く考えずに自分を納得させながら、遙士は工房の前に停めておいた自分の軽自動車に乗り込んで、イグニッションキーを回した。



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